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「RBAは草野球の甲子園」―元オリックス庄司氏が語る


野球について熱く語る庄司氏

 元オリックス外野手で、ケン・コーポレーションのエース兼主砲としても活躍した庄司大介氏( 35 )と話す機会があった。

 庄司氏は東京都出身。1992年、静岡・静清工高時代にエースとして県大会準優勝。国士舘大に進み、卒業後、河合楽器に入社。4番として活躍。都市対抗野球大会にも出場しており、1回戦で敗退したものの本塁打を放っている。

 2000年、同社を退社。同年のプロ野球ドラフトでオリックスの9位指名で入団。契約金ゼロ、年俸480万円、道具購入など支度金100万円という条件だったため、マスコミは「いかにもオリックスらしい」と揶揄した。

 1軍での出場は2試合で、公式記録は3打数0安打。2001年のシーズン終了後に戦力外通告を受け退団。

 ケンコーポレーションには平成16年に入社。19年までRBA野球大会に出場。打力はけた違いで、球をピンポン球のように弾き飛ばした。肩痛を抱えながら投手としても活躍した。この間、ケン・コーポは日曜ブロック優勝を果たしているが、水曜ブロックとの総合優勝戦には1度も勝っていない。

 記者は、いかつい風貌とけた違いの打力から和製カブレラ≠ニあだ名をつけ、元プロのプライドをくすぐるよう挑発的な記事を書き続けた。庄司氏は挑発に応えてくれた。ほとんど投げられる状態ではなかったはずだが、痛み止めのハリなどを打って投げた。

 趣味が河合楽器時代に身につけたというピアノの調律というように、優しい一面も持ち合わせていた。現役時代、ファンのサイン要求に積極的に応えていたとインターネットで紹介されていた。

 以下、RBA、野球観について語った庄司氏の声を紹介する。

――RBAについて 

 特別な思い出がある大会だった。歴史が物語っているように、「草野球の甲子園」というような雰囲気があった。出場してすぐ勝てるような大会ではなかった。みんな、会社の看板を背負ってハッスルするという独特の空間があった。

 中国の子どもたちに野球を教えるという姿勢にも共感を覚えた。RBAとは、わずかな期間であったが、出会えて嬉しい。今後、お手伝いすることがあれば喜んでお受けしたい。

――対決したRBAのチーム、選手について

 旭化成ホームズはいいチーム。僕は投げて勝てなかったし、打てなかった。打席に入って「冷静になろう」と考えるのですが、それって、やっぱり意識していることなんです。投げていても「抑えないと走られる」と意識させられるチームだった。熱くさせるチームだった。投手では木下くん(当時の三井不動産のエース。庄司から三振を奪ったことがある)。スピードもあったし、真っ向から打者に向う姿勢がよかった。

――自らの野球に取り組む姿勢について

 いい投手とは、無駄な四死球を出さないこと。出せばエラーで失点するかもしれない。草野球で強くなるにはとにかく制球力を身につけること。打者は、ど真ん中に投げても打ち損じがあるし、野手の正面をつくこともある。野球には一生懸命取り組んで欲しい。野球で頑張れなければ、仕事でも頑張れない。私はRBAといえども全力で頑張った。

――なぜ契約金ゼロで入団したか

 僕たち4人が契約金ゼロ入団の1期生で、翌年の4人とあわせ8人が契約金ゼロで入団した。当時、オリックスは批判されたが、プロに入ってレベルの高い野球をしたいという僕らの夢を叶えてくれたことで、批判は心外だった。呼び方は違っても、現在の育成選手制度と同じ。山口くん(巨人)などは育成の星≠ニ呼ばれているじゃないですか。

――ファンを大切にしたとか

 僕みたいな2軍暮らしの選手にもファンが応援してくれるんです。嬉しいことでした。時間が許す限りサインには応じました。当時、2〜3歳だった子どもとは、ご両親を通じてまだ交流があります。成長して、学校でも野球をやっているという報告を聞いています。

――各地で独立リーグが誕生しているが、待遇はよくないが

 みんなプロを目指して命がけで戦っているんです。僕は、プロから戦力外通告を受けた選手もどんどん受け入れるべきだと思います。そこでまた復帰を目指すこともできる。野球はエンターテイメント。「プロって違うよね」とお客さんに言われるようなレベルの高い野球を目指さないといけない。もう一度、野球の原点に立ち返ることも必要。

 【庄司氏と同じ2000年のドラフトでプロに入団した選手は83名(内海投手はオリックスに1位指名されたが入団拒否。その後、巨人入り)。現在、現役を続けているのはうち三十数名。もっとも多いのが西武で、中島、帆足、佐藤友、大沼など8人中7人が1軍などで活躍中】


(牧田 司記者10月8日)

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