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「国立裁判」明和地所圧勝≠ノ思う(11月8日)
 

 明和地所が建設した「クリオレミントンヴィレッジ国立」(14階建て343戸、高さ44メートル)が地元住民の「景観利益」を損ねるとして地元住民らが同社などを相手に20メートルを越える部分の撤去を求めていた控訴審裁判で、東京高裁は10月27日、原告側の訴えをほぼ全面的に退ける判決を下した。住民らの「景観利益」を認め、20メートルを越える部分の撤去を命じた東京地裁判決(02年12月)を覆した。

 私は、モンゴルに出張していたため、帰国してからこの判決を知ったのだが、「明和が全面的に勝つ」と確信していた。確信していたのは、次の理由からだ。@国立市が高さを20メートルに制限した条例を定めた時点(00年1月)で明和はマンションの建設を開始していたA「景観権」なるものは主張としては理解できる部分もあるが、何が良好か否かの判断は難しいBそもそも「20メートル」なる具体的な数値は存在しなかった。「20メートルの高さで続くイチョウ並木と調和するよう」というのが市の指導だった。つまり、イチョウと同じ高さにしなければならないという具体的、合理的理由が全くない。

 ただし、明和側が主張する条例そのものは違法となる可能性は極めて少ないと考えていた。双方が話し合いを行っていた段階で、突然、国立市が高さを20メートルとする地区計画案の公告・縦覧を行ったのが平成11年11月24日(最も条例の影響を受ける明和地所には告知しないで、地元住民にはすでに10月の段階で説明しているなど、極めて悪質ではあるが)で、施行が12年1月31日だから、こんな乱暴なことはないと思ったが、条例そのものの瑕疵を実証するのは困難と考えたからだ。したがって、明和のマンションが既存不適格建築物に認定されるのは間違いないと判断していた。

 判決は、ほぼ私が考えていた通りの内容だった。特に興味深かったのは、景観の評価に該当する部分。私は、昨年5月、当時記者をしていた「週刊住宅」(5月1日号)で次のように書いた。「『調和』という言葉は、固定的に考えるものではなく、時代と共に、あるいは人それぞれによってとらえ方が異なる。…『20メートル』は、大正時代の都市計画を論拠の一つにしているように時代錯誤が甚だしい…」と。今回の判決文もほぼ同じ考えだ。これに関連して言えば、最近、各自治体で建物の絶対高さを条例で定める風潮が高まっているが、これは危険な方向だ。高さを制限するより、むしろ高さ制限を緩和して、空地率・緑被率を高めるほうが都市景観上、あるいは都市防災上、さらには地域コミュニティの形成の上で重要ではないかと考えている。高い=劣悪と短絡的に考えるべきでないと主張したい。

 もう一つ飛び上がらんばかりに嬉しかったのは、住民側の示していた「高さ20メートルでも十分採算性・商品性のあるマンションを建設できる」という対案が全面的に否定されたことだ。ご存知の方も多いので、ここでは詳しく書かないが、私はこの対案を先の「週刊住宅」で「仰天の劣悪プラン まるで刑務所マンション」と酷評したからだ。この記事を書いたのは明和を利するために書いたのではない。あまりにもマンションユーザーを馬鹿にした、つまり日照、プライバシーなどを無視したプランに我慢がならなかったからだ。原告側が言う「景観利益」を守るためにはデベロッパーはもちろん、入居者も良好な居住条件のマンションを求めてはならないという論理は、住民エゴそのものである。判決文では、この対案は「商品性としては価値がないことは明らか」と一刀両断し、私が書いた記事を証拠資料として採用していた。

 この判決に対して、住民ら原告側は上告する意向で、また、このマンション建設については他に2つの裁判が係争中だ。しかし、どう考えても国立市や住民側に勝ち目はない。明和も入居者も多大な損害を被った。ここは歴史的な和解の道を探ってはどうか。「勝ち」「負け」の決着がついたところで、双方にとって失われるもののほうがはるかに大きい。

(牧田 司記者 11月8日)