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「業界の羅針盤」住宅評論家の佐藤美紀雄氏逝く

弔辞を述べる大京 大越顧問

弔辞を述べる大京・大越顧問

 住宅評論家の佐藤美紀雄氏が9月17日、胃がんのため亡くなった。70歳だった。19日、千葉市・ ライフケア千葉会堂で 行われた告別式には、故人と親交のあったたくさんの方々が最後のお別れに集まった。

 友人代表として大京顧問・大越武氏が「先生の突然の訃報に接し、ただ茫然自失するばかり。深い悲しみの中でなすすべを知りません…」と弔辞を述べた。

 参列者は、「住宅評論家として傑出した存在だった」(野村不動産・高井基次副社長)「業界の指針を築いた人」(アンビシャス・安倍徹夫社長)などと、異口同音に佐藤氏の評論活動をたたえた。佐藤氏の「質の高いマンション企画を」という主張に共鳴し、こだわりの住宅供給に徹してきたヒューマンランド・小田島章社長は「業界の良心を失った」と、涙をにじませていた。

 ご遺族を代表して、長男の啓紀氏は、「仕事も遊びも楽しんだ父だった。それも皆さんのお陰です。私どもに対して今後とも支援を賜りますようお願いいたします」とあいさつした。

 3連休だったため、訃報が伝わらなかった人も多かった。田舎に帰省していた明和地所・高杉仁副会長は、「新聞を整理していて始めて知った。先生の仰ることはきついことばかりだったが、みんな真実だった。先生にほめられるような商品企画を心がけてきたのに…非常に寂しい」と語った。

 佐藤氏は1934年生まれ。秋田県出身。中央大学を卒業後、住宅雑誌編集長を経てフリーの不動産ジャーナリストに。年間200件以上という現場取材を通じた評論活動は他の追随を許さなかった。著書多数。昨年12月、胃がんのため胃の全摘出手術を受け、退院後も精力的な活動を行っていた。「あと2年は頑張りたい」と語っていたが、かなわなかった。

(参列者の声=順不同)

トータル・ブレイン取締役社長・久光龍彦氏  長谷工時代からのお付きあいだが、弟子もつけず足で稼ぐ評論活動は抜きん出ていた。あれだれ現場に強い評論家はいない。長谷工時代では、コンバスシリーズから脱却して、ユーザーニーズを取り込む企画に大変革できたのも先生の批評のお蔭。現在も当社の顧問としていろいろアドバイスをして頂いていた。先生の後を継ぐような評論家はもう出ないだろう。

ポラス取締役特建住宅事業推進本部長・佐藤公義氏  平成4、5年ごろ、私が初めてマンションを担当した草加市のマンションを佐藤先生が見にこられて、「小さい会社だが、志が高く、いいものを造っている」とお褒めの言葉をいただいたのが最初のおつきあい。以来、叱られてばかりだったが、ユーザーの視点に立脚した商品企画でなければならないことを教わった。

中央住宅取締役、ポラスグループ広報部長・明石雅史氏  今年7月、七光台の建売住宅を取材していただいたばかり。当社の中内社長の死亡の際には、いい文章も書いていただいた。まさかこんな早くお亡くなりになるとは…。

野村不動産取締役会長・中野淳一氏  誠実な方だった。毎年、年末にお会いしてご講評をいただいていたが、いい住宅を建てることに対する情熱にいつも感服させられた。ご自分の目で見てらっしゃるから、ある面では怖い存在だった。

野村不動産取締役副社長・高井基次氏  行動派の最たる先生。自らの足で書かれた論評活動は他を圧していた。傑出した存在。業界にとって大事な方を亡くした。非常に残念だ。

アンビシャス取締役社長・安倍徹夫氏  業界の歩むべき道を指し示してくれた方。今年7月末には、当社の勝田台のマンションを取材していただいたばかり。羅針盤を失った。非常に残念。

ヒューマンランド取締役社長・小田島章氏  業界の良心だった。大先生を失った。小言を言ってくれる人がいなくなった。

新宿区荒木町「シャンテ」網代茂雄氏  店にお客さんとしていらっしゃってから20年。多いときは週に2、3度いらっしゃいました。私の店を一番よく利用されたのではないでしょうか。歌がお好きで、道中ものとか、「つばき娘」「熱き心に」などをよく歌っていらっしゃいました。

長栄不動産取締役営業本部長・浅野純一氏  佐藤先生に弊社の常任顧問を快諾して頂いたのが今年の4月でした。それは先生が業界の良心と高く評価されていた「日本新都市開発」のOBが中心となった会社であれば、「新都市」の良心を引き継げという先生の厳しいお教えであったと今も思っております。葬儀の事務局を引き受けたのもそのお教えがあったからこそであり、何とか大京の大越常勤顧問にもご指導いただきながら、無事に事務局の大役を務めることができました。この上は先生の厳しいお教えを実践し、志高く「新都市」の良心を忘れず、経営に邁進して参ることが先生への恩返しと思っております。

 

「記事は足で書く」見本のような執筆活動

仕事と酒とタバコとカラオケを愛した先生

最後のお別れをする参列者

最後のお別れをする参列者

 記者は、先生とは20余年のお付きあいだった。先生は師匠≠フような存在で、勝手に弟子≠ニ呼ばせていただいていた。先生が真打なら、記者は前座だ。その差はとうとう埋められなかったが、「先生のような記者になりたい」というのが私のテーマであることは変らない。

 先生との関係が深まったのは、私が「週刊住宅」の記者時代の昭和57年、紙上に「佐藤美紀雄のワンポイント時評」を連載していただくようになってからだった。当時の高松博美編集長に「佐藤先生に好きなように業界の諸々のことを書いていただこう」と提案し、快諾を得た。連載第一号は小田急不動産の栗平のタウンハウスを取り上げられたのを覚えている。

 連載をお願いしたのは、現場主義に徹した先生の論評は異彩を放っており、連載コラムは間違いなくヒットすると思ったからだ。

 当時、住宅評論家と呼ばれる方はたくさんいた。ところが、多くの方は「建設省のデータによれば」「○○会社の発表によれば」などと、マクロデータや会社発表ニュースをもとに論評されていた。佐藤先生は違った。「私の取材によると」などと自らが情報源となり、舌鋒鋭く批評されていた。

 原稿料については「当社規定」で了解していただいたが、当時でも破格の安さだったように思う。

 その後、1回につき約1400字、年間約50回、先生はほとんど休まず書き続けられた。亡くなる直前までで連載回数は1031回にも及んだ。週刊住宅紙上でもっとも読まれたコラムだったのは間違いない。

 かつて連載500回を記念して特集を組んだとき、先生は「800回ぐらいは書けるだろうか」とおっしゃったことがあるが、記者は「先生、ダメです。少なくとも1000回までは書いてください」とお願いしたこともある。しかし、まさか1000回も続くとは夢にも思わなかった。

 昨年、コラム連載1000回を達成された。「1000回達成を記念して飲もう」と約束していただいたが、入院されたのはその矢先だった。結局、飲み会は行えず、先生は逝かれた。

 それにしても、何かにつけ、先生にはかなわなかった。

 もっともかなわなかったのは取材量だ。

 先生は、「記事は足で書く」の見本のような人だった。年間 200 件以上のマンションや建売住宅の現場を取材されていた。記者も目標は 200 件に置いていたが、達成できた年は少ない。どこが違うのか。記者は注目物件しか見ないが、先生は同じ駅圏の物件をくまなく回られた。この取材量の差は広がるばかりだった。

 記事の質については、足元にも及ばなかった。記者などは業界に甘い見方をするが、先生はユーザー視点から業界エゴを批判した。企業倫理についてはもっとも厳しい見方をされていた。営業マンのレベルアップについても、口酸っぱく叫ばれた。

 足も速かった。同行したときは、記者はいつも駆け足をさせられた。多少遠くてもタクシーに乗るようなことはされなかった。

 力も強かった。飲み会で腕相撲をしたことがあるが、記者は両手でも先生にかなわなかった。

 飲み会といえば、先生にはおごられ放しだった。「牧田さん、『百年の孤独』が飲めるよ。『魔王』もあるよ」と勧められた。1次会で終わることはほとんどなかった。2次会、3次会と続き、最後はコメントをいただいた「シャンテ」か、先生と同郷の方がマスターをされている「秋田ブルース」でのカラオケだった。先生のことを飲んだくれ≠フように言う人もいるが、断じてそうではなかった。いつも節度を持って飲まれていた。

 タバコは手から離せない方だった。両切りのピースなどもよく喫われていた。一服喫って、「フゥッ」とおいしそうに顔を上向きにするのが癖だった。

 先生は歌もうまかった。発音が正確で、かなり高音も出された。なにより声が美しかった。レパートリーも広く、新しい曲にもどんどん挑戦されていた。

 先生に勝てるものを強いてあげれば、字が先生ほど下手でないことぐらいだろうか。とにかく先生の字は編集者泣かせだった。まるでアラビア語かヘブライ語のようで、生原稿を植字させようものなら、400字のうち100字ぐらいは赤字を入れなければならなかった。

 「先生、もう少しましな字は書けないんですか」とたずねたことがあるが、先生は平然として「自分は下手だと思わない」と答えられた。

何度も解読しづらい原稿を読ませていただいたお陰で、先生の字はほとんどすらすらと読めるようになったことが記者の誇りでもある。

 「成人してから医者など行ったことがない」と豪語されていた先生が、あまりにもあっけなく逝かれた。何一つ恩返しができないまま、先生は逝かれた。

 しかし、嘆いてばかりいられない。

 先生は、評論活動に入るとき、「業界ジャーナリズムと同じ原稿など書いていては存在価値はない。現場主義に徹し、自分の目を通じて業界のために働こう」と決意されたという。この言葉を肝に銘じよう。少しでもこの姿勢に近づくことが先生に対する恩返しだ。

 先生、安らかにお眠りください。                                    

                                                               合掌

                                                           (牧田司記者)

 

 佐藤先生と親交の深かった、元日本新都市開発取締役・江柄昭治氏( 74 )から次の追悼文を頂いた。全文を紹介します。

厳しいが、それでいて優しい気遣い――まるで歩きまくる修行僧

 美紀雄さんが亡くなった。悲しい。惜しい。不動産業界、住宅ジャーナリズム、たくさんの仲間にとって。

 思えば二十数年の及ぶ付き合いをしてもらった。週刊住宅の牧田さんの親切で深い意味を込めた紹介のおかげだ。初対面のときのあの穏やかで、はにかんだような顔を鮮明に覚えている。

 美紀雄さんの仕事に対する強い信念と情熱、先見性。なんと言っても土台となっているのはあの「足」と「汗」と「直感」−−歩きまくる修行僧だ。厳しいが、それでいて優しい気遣いが取材先現場にも企業にも向けられていた。

 よく話をしてくれた。よく聞いてくれた。−−業界のために、ユーザーのために、そして我々のために。

 開発、街づくり、住まい、環境、利便、販売手法と現場対応、そして経営哲学にふれて。

 美紀雄さんにはマニフェスト≠ェあったと私は思う。自らに課した密かな業務実行計画だったと思う。

 仕事を終えた美紀雄さんは、また、見事だった。さすがだ。

 もうその人はいない。

 涼しくなったらまた会おう、話そう、飲もう、牧田さんと−−と言っていた美紀雄さんはもういない。私は言葉が見つからない。ただ、ただ「ありがとう」

              

江柄 昭治