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扶桑レクセル・安倍社長退任を考える (6月28日)

 6月25日行われた株主総会で、大京をはじめ扶桑レクセル、大京管理、大京住宅流通のグループ4社の社長が全て代わった。中でも扶桑レクセル・安倍徹夫社長 (59) の退任は、ある意味で大京時代≠フ終わりを告げるものだ。安倍氏はかつての大京王国を築いた主力メンバーの1人で、同じように今回、大京住宅流通社長を退任した実兄の安倍毅夫氏とともにグループに最後まで残っていた。 大京については、UFJの債権処理問題に絡んで様々な憶測が流れているが、ここでは触れない。触れれば傷つく人もいるからだ。安倍社長の功績を紹介することで、大京パワー≠ニは何だったのかを考えたい。

 昭和 50 年代前半。 当時、三井不動産が世田谷、練馬などの環境の恵まれた地域で圧倒的な強みを発揮していた。大型団地を除き、準工地域のマンションなどほとんどなかった。一方、安倍氏が支店長を務めていた大京東京支店の供給物件も城西、城南の人気エリアで、しかも徒歩10分圏ばかりだった。当然、よく売れた。安倍氏と記者との付き合いはそれから始まった。酒の席でも安倍氏が話すのはマンションのことばかり。それほど仕事熱心な方だった。

 それでは、よくいわれるように、安倍氏は「大京の営業力」だけで売ってきたのか。答えは「ノー」だ。若い頃は大京の武闘派≠ニして知られたが、腕力だけで売ってきたのではない。決して冒険はしなかった人だ。バブル期、首都圏では年間千数百戸の億ションが分譲されたが、安倍氏は数えるほどしか手がけていない。徹底して1次取得層にターゲットを絞っていた。

 平成4年、扶桑レクセル社長に就任してから、頭脳が冴え渡ったというべきだろう。その時々の市場環境に左右されず、一貫して普通のサラリーマンが取得できるマンションを手がけてきた。都心回帰現象が顕著になった段階でも都心回避≠フ郊外型で業績を伸ばした。

 安かろう悪かろう≠ニいう商品を作ってこなかったことも特筆できる。マンション設計のトップ企業として知られる日建ハウジングシステムを積極的に起用した。全供給量の4割に達したときもあった。このほか東急設計の梅原二六氏、建築家の芦原太郎氏 ( アシハラヒロコさんの夫 ) なども起用した。芦原氏が設計した「愛甲石田」は、完成してから「このマンションの空きはないのか」と何人ものユーザーが訪ねたという。

 今でこそ当たり前の低床バスを、首都圏で最初に採用したのも扶桑だ。容積不算入の自転車置場、出窓下収納や、記者も頂き重宝している「物干しポール」も同社が最初に採用した。洋室に引き戸を採用したのも同社が先鞭ではなかったか。環境共生にも力を注いだ。厳しい環境下で業績を伸ばしてきたのはこのような頭脳≠セ。安倍氏が去り、大京をはじめとするグループ会社の前途は容易ではない。もう一度「頭脳と足腰」を鍛えなおすしかない。

 RBA野球でも、扶桑は 3 年前準優勝を飾っている強豪チームだ。「安倍社長がいなくなったら弱くなった」といわれないよう、選手はがんばって欲しい。 

(牧田 司記者 6月28日)