RBA OFFICIAL
 
2013/11/19(火) 10:05

業界の浮沈・盛衰を映す鏡 25周年を迎えたRBA野球大会

「住宅-不動産-建設業界に横串を通した」久米大会委員長

 RBA野球大会は住宅・不動産業の浮沈を映す鏡-今年で25回目を迎えたRBA野球大会がスタートしたのは平成元年。バブルの真っ最中だった。しかし、平成2年9月、バブルは一挙に崩れた。株価は下げ基調で値がつかず、マンションの売れ行きもばったり止まった。投資用マンションは市場そのものがなくなった。解約が相次いだ。それでもRBAは一度も中止することなく開催を続けてきた。これまで参加したチーム(企業)は約170チーム(企業)にのぼる。数々のエピソードを交えながら大会の歴史を振り返ってみた。

 大会がスタートしたのは平成元年。主催したのは第三企画。久米信廣・大会委員長(第三企画社長)は、「不動産関連の仕事をしていて、何とか業界の役に立ちたいと考えて野球大会を思いついた」と開催を決断。「金儲けと取られるのが嫌で、社員には一切営業の話をするな、第三企画が何の会社かわからなくてもいい。ただただ住宅、不動産、販売、仲介、建設などバラバラだった業界に横串を通したくてがむしゃらに突き進んだ」と話す。スタッフは朝から晩までグラウンドに立ちつくした。

 第1回の参加チームは約50。大手デベロッパーからハウスメーカー、流通会社、大手ゼネコンをはじめ、いわゆる街の不動産屋と呼ばれる中小も参加した。このような住宅-不動産、さらには建設業まで巻き込んだ業界を横断するイベントはもちろん初めてだった。

 これ以上ない順風満帆のスタートを切った。そして、その翌年、バブルがはじけた。舞台は暗転した。しかし、ほとんどの業界人は「そのうち元に戻る」と高を括っていた。まさか土地神話が崩れ、今日まで20年以上にわたり右肩下がりの経済が続くとはだれも思わなかった。

 それでも、平成4~5年まではまだバブルの余熱が残っていた。参加チームも出入りを繰り返しながら毎年50チームぐらいが参加していた。退場を余儀なくされたチームは経営そのものが危うくなり破たんした会社や新規採用がなく選手の高齢化でチームを維持できなくなったところだ。

 主だったところを列挙する。第1回大会に優勝するなど第9回大会まで出場し、4度の総合優勝を飾った大京。〝左殺し〟の異名をとった山本雅夫氏(南海-巨人-近鉄)が4番を打ち、首位打者のタイトルホルダー長崎慶一氏(大洋-阪神、元荒川区議)や盗塁王の屋鋪要氏(大洋-巨人)も選手&コーチとして在籍していた。その大京も第10回大会から姿を消した。

 マンションデベロッパーの力建も草創期のRBAの大立役者だった。明大の硬式野球部出身者でチームを構成し、社内に夜間練習場を設け〝打倒!大京〟を目指した。プロの道も社会人野球の道も断たれた大條監督は三井の志村氏と互角のピッチングで打者をほんろうした。

 このほか、都市型マンションで一世を風靡したアサヒ都市開発、億ションの東高ハウス、ゼネコンの石原建設、東洋信託系のデベロッパー東洋不動産、建売り大手の六建建設、三和ホーム、ハウスメーカーの殖産住宅相互…。ビル・マンションのリノベーションが流行しているが、その草分けの田園都市も5回大会まで参加していた。

 その後、リーマン・ショックの影響もあり。今では170社のうち40社ぐらいが業界の表舞台から退場した。第1回大会から第25回大会まで連続して参加しているのは旭化成ホームズ、東急リバブル、みずほ信不動産販売、ミサワホーム東京、ケン・コーポレーション、三井不動産、ミサワホームの6チームしかない。

 無謀ともいえる久米の願いはかなった。住宅-不動産-建設をつなぐ横串をこれから縦糸で未来につなげる仕事がまだ残っている。

 

 

 

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