昨年8月、財団法人住宅管理協会が担っていたUR賃貸住宅の管理業務を引き継いで設立された株式会社URコミュニティの社長に、前マンション管理業協会理事長で大京アステージ会長だった黒住昌昭氏(72)が就任して10カ月が経過した。今から2年前、「70歳になったら仕事を辞める。男の美学だ」と宣言して理事長職も会長職も退いた黒住氏がどうして舌の根も乾かないうちに新会社の社長に就任したのか-黒住氏にインタビューした。
◇ ◆ ◇
-「男の美学」と宣言し全て辞められてから1年でどうして社長に就任されたのか
「そう言われるだろうと予測していた。13兆円の借金を抱えるURが新会社の社長に官僚OBを据える訳にはいかないということで〝トップはあいつだ〟と私にお鉢がまわってきたのだろうが、受けた以上、老骨に鞭打ってお役に立とうと決めた。ドラスティックには進めないだろうが、この8カ月間でじわじわと分かってきた。真っ先に手をつけたのが会議。エンドレスの会議は禁止した。定時にスパッとやめると、出席者全員がそれ以降の時間に予定が入れられる」
「全国にある70数万戸に住んでいらっしゃる居住者の皆さんはお客さん。滞納者も同じ。これまでは無駄もあったし、お客さん目線が欠けていた。しかし、社員のレベルはみんな高い。このよさを生かし〝住まう〟楽しさをお客さんと一緒になって考えていきたい。孤独死などは何とかしてなくしたい」
「独法改革で随意契約はダメになったが、全て競争入札制にして〝安かろう悪かろう〟でいいのかという問題がある。入居者も不幸になる。一定の質を保つためにも継続性が必要だ」
(記者は「男の美学」も立派だが、絶対にみこしを担ぐ人や集団が現れるだろうとみていた)
-山根弘美氏の理事長抜擢は見事だった
「山根さんにバトンタッチすることは退任する2年半くらい前から考えていた。私など現場を全然知らないが、山根さんは現場のたたき上げ。樋口さん(大和ハウスの樋口会長)はさすがだし、山根さんもすごい。最初は固辞されたが、最後は他の理事の方も含め了承してもらった。俺の目に狂いはなかったと、少しは自負している」
-辞めてから何をされていたか
「青山のNHK文化センターに1年通い、中高年の女性ばかりの中で水彩画を習った。私はもともと画が好きで中学のとき総理大臣賞を受賞した。種を明かすと、私は色弱で、色使いが普通と違う。それが評価されたのだろう。銀行(三和)の面接でも、面接の担当者から『当行は色弱者を採用しないんだよ。まあ、しかし、せっかくだからこれが判別できるか試してみよ』と伝票を渡された。私は伝票に記号が付いているのが分かったので、それで仕分けした。その担当者は『完璧じゃないか』と採用を決めてくれた。その後、三和は色弱の基準を撤回した。赤か青か白か黒かの色分けでなく、○△□などの記号でものごとを判別できるようにすれば色弱者が救われる」
(全国に色覚異常は300万人とか。ユニバーサルデザインの視点からも考えないといけない。絵の話もよく分かる。記者も小さい頃から絵が好きで自分がいちばん上手と思っていた。中学のとき、同級生の色使いに絶句したことがある。えもいわれぬ紅葉が描かれていた。かなわないと思った。あとで彼が色弱だったのを知ったのだが、子供心にも既成概念でしかものごとを考えられぬ自分を恥じた)
「いま凝っているのは料理。これまで料理などやったことがまったくないが、5、6年前、樋口恵子さんが、大学の会報誌「学士会報」(黒住氏も樋口氏も東大卒)だったか、〝男子厨房に入らずなどと気取って料理をしない人は無能〟などと書かれたのにムカッときて、それから見返してやろうと覚えた。いまでは女房も子どもも孫も美味しいと褒めてくれる。女房に言わせると、レシピ通りにやるからだと」
(奥さんの言い草は記者もよく分かる。「私のように目分量でやってみなさいよ」という挑発だ。これが難しい。油の温度など何度試しても分からなかった。いつも温度計を差し込んでタイムを計ってから揚げをつくった)
◇ ◆ ◇
記者は黒住氏の話を聞きながら「メザシの土光さん」と呼ばれた故・土光敏夫氏と京セラ名誉会長の稲盛和夫氏を重ねあわせた。土光氏がIHIの社長を退いたあと、東芝の再建を請われて昭和40年に社長に就任したのは69歳のときだ。その後、土光氏は経団連会長、第二臨調会長に就任するが、第二臨調会長は85歳で就任している。
稲盛氏が2010年1月に日本航空の会長に就任したのは78歳のときだ。記者は「腐っている日航を再建することなど不可能。失敗したら名誉に傷が付く」と心配したが、稲盛氏は見事に再建をやってのけた。
東芝や日航と同様、現在のURも試練に立たされている。約14兆円の賃貸住宅などの資産を保有する一方で13兆円もの借金を抱えており、独立行政法人改革論議の渦中にある。
膨大な借金は放漫経営の結果として批判されるのは否めないが、国の住宅政策に沿って良質な住宅供給や都市の再生・活性化に果してきた役割は大きい。優れた技術・ノウハウをどう次代に継承していくのかも問われる。77万戸の賃貸住宅居住者の生活もかかっている。役割は終わったと切り捨てるわけにはいかないはずだ。
黒住氏は72歳だ。数年前、「死ぬかと思った」(黒住氏)大病を患っているが、2カ月で現場に復帰した。この日の黒住氏は管理協理事長を務めていたころと同じだった。
この話を黒住氏にしたら「滅相もない」と否定されたが、黒住氏が三和銀行時代に渡邊忠雄会長の秘書を務めたとき、渡辺氏も72歳のときだったと話した。
帰り際に見せてもらったのだが、黒住氏の机の上にはこの5カ月間で北は北海道から南は福岡まで全国に27カ所ある「住まいセンター」を回った分厚いファイルが置かれていた。ファイルにはびっしりとメモが書かれていた。
「事前に連絡すると、かえって気を遣わせるし、業務に支障が出てはいけないので自分で場所を確認し、秘書にも告げず出かける。私の顔など知らない受付の女性は『どちら様ですか』と尋ねてくる」そうだ。
現場を大事にするのは土光氏もそうだった。地方の工場を訪ねるときは秘書をつけず一人で夜行電車に乗り夜行電車で帰るのが習慣だったという。徹底した現場主義を貫いた。土光氏や稲盛氏と黒住氏を重ねあわせて考えたのは間違いでないと思う。URの進むべき方向性を示してくれると確信している。
◇ ◆ ◇
記者の独断と偏見だが、黒住昌昭氏について少し紹介する。
平成9年6月、バブル崩壊後苦境に陥っていた大京を再建するため当時のメインバンク三和銀行から副頭取を務めた長谷川正治氏と、翌年には当時常務だった黒住昌昭氏が送り込まれた。長谷川氏は大京の社長に、黒住氏は大京管理の社長にそれぞれ就任した。
長谷川氏は社長就任会見で「早く、早く。早く」を三連発したように、矢継ぎ早に思いきった改革を断行した。完成在庫が山積していたのを逆手にとって「完成販売」なる妙案を打ち出したのもそのひとつだ。一方の黒住氏は地味な管理会社ということもあって表舞台には登場しなかった。しかし、記者は長谷川氏が再建のメドをつけたら後任社長には黒住氏が就任するのだろうとみていた。
2人の考え方、経営手法にも興味をそそられた。例えて言うなら長谷川氏は名刀政宗だ。切れ味鋭い太刀を真っ向から振り下ろす、柔道に例えるなら背負い投げで相手を畳に叩きつける一本勝ちにこだわる方だった。それまでの不動産業界のトップにはほとんどないタイプの登場だった。
黒住氏の性格は長谷川氏とは間逆、見事な対象をなした。日本刀ではなくのこぎりだ。歩みは緩やかだが、ギコギコとじっくり時間をかけ確実に大木を倒す樵のような人だと思った。柔道なら一本背負いではなく、寝技に持ち込み、相手を弱らせるか、あるいは〝もう止めよう〟と耳元で囁き、相手に決定的なダメージを与えない寝業師だとみていた。
その後の経緯は省くが、記者の予測は外れた。平成16年5月。若返りを理由に同社の幹部はほとんど退任し、長谷川社長も健康を理由に退任した。新しい社長には三和銀行出身の山﨑治平氏が就任した。黒住氏はそのまま大京管理の会長にとどまった。
それから10年。同社は、競争が激しくリスクも多い単品事業のマンション販売の経営からマンション管理を含めた「住生活総合サービス業」へと脱皮を図ってきた。成果を挙げているのは周知の事実だ。
URコミュニティがどのような路線をこれから歩むのか。そのヒントは今回のインタビューにあると思う。