最後のお別れをする会葬者(北区・清光寺で)
3月13日早朝に急性心不全で亡くなった株式会社週刊住宅新聞社社長・長尾浩章氏(享年57歳)の同社と長尾家の合同葬が4月11日、北区・清光寺で行われた。喪主は故人の妻で新たに同社取締役社長に就任した長尾睦子氏。
400名・社を超える芳名板が供えられた中、約650名の会葬者は境内からあふれ長蛇の列をなし、最後尾の人は待つこと約1時間30分。篠付く雨と気温10度の寒さに震えながら故人と最後のお別れを行った。
長尾睦子氏は25歳で浩章氏と結婚してから家族との時間を大切にしたこと、宅建の資格を取得させられたこと、ゴルフは良きライバルとなるまでに上達したことなどを紹介したあと、「人の子として20年、人の親として20年、自分の人生としての20年を生きろと第三ステージを歩んでいるさなかの突然の別れとなってしまいましたが、主人の教えを守り、精進していく所存です」と謝辞を述べた。
また、葬儀委員長で同社執行役員事業統括本部長・松本英雄氏は「かけがえのないトップを突然失い、失意のどん底に陥りました。しかし、後戻りはできません。社員一同、長尾社長の遺志を受け継ぎ、会社を一層発展させていく覚悟」と追悼の辞を語った。
会葬者にはブランケット版の「週刊住宅」号外が配布され、長尾社長の経歴や睦子夫人、長男の思いなどのほか、急逝を悼む業界団体、日本専門新聞協会、不動産三田会から多くの追悼のコメントが紹介された。
長蛇の列をなす会葬者
芳名板
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「ノーサイドにしよう」 長尾社長との確執の14年間に終止符
平成15年、事件は起きた。あの国立マンション問題の記事が原因で記者はそれまで20年間お世話になった「週刊住宅」を辞めることになった。
明和地所のプランに対して国立市側が示した対案プランを「刑務所マンション」と主観的事実に基づいて切り捨てた。業界の利益を最優先し信念を貫いた。ところが、記事の一部が会社の事情と衝突した。しこりが残った。熾きになった。
あれから14年。業界やデベロッパーの懇親会などで何度もお会いしたが、会釈を交わすのみで声をかけあうことは一度もなかった。お互い意地を張り続けた。お互い不器用だった。
長尾社長の訃報を聞いたとき言葉を失った。「行くな書くな」「行け書け」この堂々巡りが振り子のように記者を激しく揺さぶった。最後は「行け書け」が勝った。「葬儀に行くことが遺族への礼儀。行って追悼文も書くべし」-あるデベロッパーの社長の一言が記者の背中を押した。
書けば二人の確執に触れざるを得ない。あの時の長尾社長の決断の当否については分からない。長尾氏は慶応ボーイそのもの。とても温和な方だったが、自分が一度決めたことは絶対に譲らない頑固さもあった。だからこそ厳しい環境下で会社を切り盛りされてきたのだろう。
二人が良好な関係だった時期もあった。感謝してもしきれないことがある。記者が妻を亡くし2人の小さい子どもを育てたときの約10年間、毎日30分から1時間遅刻したが、長尾社長と会社は黙認してくれた。そのお陰で現在の記者がある。
同じ新聞の編集部員で、年齢が上だったことから何かと相談も受けた。一緒によく酒も飲んだ。一番印象に残っているのは結婚する時だった。「牧田さん、良家のお嬢さんなんですよね…私との釣り合いが…」と酒を飲みながら深刻そうな顔をしたので、「馬鹿だね、そんなこと関係ない。2人で決めること」と励ました。それが分かってくれたのか、結婚を決意された。その奥さんが長尾睦子氏だ。
新社長に就任された睦子夫人は悲嘆に暮れ、悲しみに打ちひしがれるはず。慰める言葉もない。しかし、記者もそうだったように、仕事が気を紛らせてくれる。時間の経過とともに前向きになれる時が必ず来る。業界紙の環境は厳しいが、困難な道を切り開いてほしい。この日の多くの会葬者の後ろには数十倍の読者がいる。その読者に寄り添っていただきたい。
祭壇の笑顔の長尾社長に「ノーサイドにしよう」と声を掛けた。長尾社長も頷いたような気がした。そこでもう一言発した。「長尾さん、わたしのロストボールはどこへ行った? 」「何言ってんですか、ほらここにあるじゃないですか」と、ポケットからボールを出すのをわたしは知らんぷりした。
滂沱の涙を酒と一緒に飲み干した。