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2019/01/30(水) 17:05

全て疑い、見よ 明海大不動産学部「不動産の不思議 学生たちの視点と発見」を読む

投稿者:  牧田司

 毎週火曜・水曜日はモデルルームが休みなので暇に飽かせて「住宅新報」の連載「明海大学不動産学部 不動産の不思議 学生たちの視点と発見」を読んだ。率直な感想を思いのままに書き連ねる。きつい表現もあるかもしれないが、いつも通りわが業界紙に頑張ってほしいからで、他意はまったくない。

 この連載は、2013年9月24日発行号から始まったもので、1月22日付最新号で第267回だ。5年以上もよく継続していると感心するのだが、記者はこれまでほとんど読んだことがない。読者である不動産のプロもやや物足りないと感じるのではないか。なぜか。一言で言えば、それは虚心坦懐にものを見る姿勢、〝なぜ〟という問いかけにやや欠けるからではないか。世間の常識を疑ってかかるのが学問の初歩だと思うがいかがか。

◇       ◆     ◇

 最初に俎上に載せるのが最新号の4年生・Tくんの「邸宅の門」だ。

 Tくんは、「街を歩いていると、広い敷地に立つ(文のまま)格式のある建築物が目についた。もっとも、建築物はくたびれ、門は空き家のように疲弊しているが、人が住んでいる。豊かさを物語る格式の高さと、手入れが行き届かない現状のアンバランスが、ひときわ目を引く」と書き出している。

 その門とは「薬医門」のことで、以下、14行にわたって延々と門の説明が続き、さらに伝統的な建築物がなくなってきたことから始まり、技術革新と低コストを背景に最近の敷地の狭い住宅が主流になり、職人の減少などにより伝統的家屋の修復が難しくなってきたことまで綴り、その保全に取り組む必要があると説く。

 このTくんの主張に対し、教員は、「持ち家の価値保全が重要課題の今、住宅への追加投資が『割に合わない』社会を改める必要がある」と締めくくる。

 ごもっともだ。しかし、へそ曲がりで馬鹿を自任する記者はこのような羽織袴と白無垢の欺瞞に満ちた結婚式のような正論はちっとも面白くない。

 もっと具体的に書くべきだ。「くたびれた」は、例えば「老醜をさらしながらそれでも美しい花を咲かす樹齢数百年の石割桜」か、あるいは(書けば単位を貰えないかもしれないが)「着たきりスズメの我が教官」くらいまで踏み込んで、読者をひきつけるべきだ。

 「疲弊」も「くたびれている」のとほぼ同義語。これも「わが両親の夫婦関係と懐具合と同じくらい疲弊している」と書けば誰も文句はつけない。

 「空き家のようだが、人が住む」と書くのは住人に対して失礼。そのような状態になった理由も千差万別のはずだ。きちんと住人に理由を聞くべきだ。その答えにヒントがある。予想するに「先立つものがない」からだろうが、その問題を解決するためにはどうすればいいか、そこでTくんの主張が生きてくる。そんな広い敷地なら売り払ったほうが高値で売れるとか、歴史的建造物に指定すべきだとか、公的資金を投入して保全すべきだ…などと。

 ついでに言えば、人も建築物も年月を経れば「くたびれる」し「疲弊」もする。その老いを覆い隠すサイディングやケミカル建材が当たり前のように使われるほうがおかしいのではないか。経済効率を最優先するいまの価値観を疑ってみてはどうか。

◇       ◆     ◇

 第254回では、恵比寿ガーデンプレイスのマンションの外観が美しいと2年生Kくんが書いていた。記者もそう思う。あのカルロス・ゴーンさんが住んでいたマンションとは対照的だ。

 しかし、このマンションは住戸内に柱や梁型が結構出ているのが難点だ。外観だけでは善し悪しが測れないということだ。人と同じだ。よく観察する以外に本質・本性を見抜く手だてはない。

◇       ◆     ◇

 最高に面白いのもある。第237回の3年生・Sくんの「閉ざされた公園」だ。「小さい頃、『子供は外で遊べ』とよく言われた…公園の広場は子供が元気に走り回り、鬼ごっこやサッカーをする楽園のはずだったが、そこは閉鎖されていた」と書き出し、「閉ざされた広場は、私権を強く主張する住民や真の公共の福祉を考えない行政ほかが招いた結果だと思う」と言い切る。

 記者も10年前くらいだったか、ある主婦から「子どもを外で遊ばせるようなことを最近のお母さんはしない。危険だから」と聞いて絶句したことがある。

 どこの公園もそうだ。大書きされた入り口の看板の禁止事項には、キャッチボール、サッカー、ゲートボール、ゴルフ、大声、ごみ捨て、花火、犬の散歩などのほかに、喫煙は許されているのに酒気(飲むなとは書いていない)がダメというものもある。いったい酒気を帯びているかどうかを誰が確認するのか。利用時間は平日の9時から午後4時まで、土・日曜日は閉園するものまである。

 Sくんが指摘するように、檻のようにフェンスで囲まれているものも少なくない。主客が転倒している。大事なのは公園か人間か。獣害に悩む農村と同じ光景だ。檻の中に閉じ込められているのは人間のように思えてくる。

 Sくんは都市公園法を読んだことはあるだろうが、禁止事項には「何人も、みだりに…」(第11条)とある。みだりは「妄り」「濫り」(「淫ら」は記者、「みだら英泉」は皆川博子さんの小説)とも書くが、嫌な言葉ではないか。一種の法律用語だ。お上は「公園」すらわれわれを支配する道具にしようと考えていることが分かる。管理責任というものだ。

 しかし、Sくん、東京都は公園の中にマンションを建てさせ、その代わりに公園の維持管理をマンション管理組合に負担させるという画期的な〝民設民営〟制度を活用したことがある。残念ながら1件で終わってしまったが、わが多摩市は中央公園に図書館を建設することを決めた。保育園などの設置例も出て来た。公園の用途も時代とともに変わっていい。

 もう子どもが公園で遊べないのなら飲食、遊戯、宿泊などが行えるようにしたほうがいいというのは言い過ぎか。

◇       ◆     ◇

 もう一つ、公園ついでだ。これは不動産の不思議とは関係ないし、小生が言うのでもない。あのロダンが「講演」を頼まれて言った言葉だ。

 「それをお約束する事は出来ません…『教授』というものはもう意味のない言葉です。値打ちのない言葉です。何にも知らない人たち、自分の道を持っていない人たちがみな教授にかつぎ上げられたがるのです。それに、私(ロダン)に出来る最上の講義はそこにあります。私の製作を見ればいいのです!

 聡明な若い人たちはそれを見て何かの助けになるだけのものを得るでしょう。見る事です!そして仕事することです!」(岩波文庫「ロダンの言葉抄」高村光太郎訳)

 冒頭にも書いた。とにかく全てを疑い、たくさん見ることを皆さんに勧めたい。

 

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