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2019/02/25(月) 13:49

蠕々然(ぜんぜんぜん)マンション取材もかくあるべし 芥川龍之介「女体」から

投稿者:  牧田司

 忙中閑あり。不動産には全く関係ないが、とても面白い文庫「女体についての八篇晩菊」(中公文庫)を紹介する。タイトルはやや嫌らしいが、中身は非常に面白い。太宰治、岡本かの子、谷崎潤一郎、有吉佐和子、芥川龍之介、森茉莉、林芙美子、石川淳のそれぞれの珠玉の短編に、選者でもある漫画家・安野モヨコ氏が挿絵付きのあとがきを担当している。小説をそのまま転載は出来ないので、著作権フリーの「青空文庫」から芥川龍之介「女体」を引用した。( )内の一部は記者が追加した。

女体 芥川龍之介

 楊(よう)某と云う支那人(しな=かつて日本人は中国をそう呼んだ)が、ある夏の夜、あまり蒸暑いのに眼がさめて、頬杖(ほおづえ)をつきながら腹んばいになって、とりとめのない妄想に耽(ふけ)っていると、ふと一匹の虱(しらみ)が寝床の縁(ふち)を這(は)っているのに気がついた。部屋の中にともした、うす暗い灯の光で、虱は小さな背中を銀の粉のように光らせながら、隣に寝ている細君(=奥さん)の肩を目がけて、もずもず這(は)って行くらしい。細君は、裸のまま、さっきから楊の方へ顔を向けて、安らかな寝息を立てているのである。

 楊は、その虱ののろくさい歩みを眺めながら、こんな虫の世界はどんなだろうと思った。自分が二足か三足で行ける所も、虱には一時間もかからなければ、歩けない。しかもその歩きまわる所が、せいぜい寝床の上だけである。自分も虱に生れたら、さぞ退屈だった事であろう。……

 そんな事を漫然と考えている中に、楊の意識は次第に朧(おぼろ)げになって来た。勿論夢ではない。そうかと云(い)ってまた、現(うつつ=現実)でもない。ただ、妙に恍惚たる心もちの底へ、沈むともなく沈んで行くのである。それがやがて、はっと眼がさめたような気に帰ったと思うと、いつか楊の魂はあの虱の体へはいって、汗臭い寝床の上を、蠕々然(ぜんぜんぜん=はう様子)として歩いている。楊は余りに事が意外なので、思わず茫然と立ちすくんだ。が、彼を驚かしたのは、独(ひと)りそればかりではない。――

 彼の行く手には、一座の高い山(=一対の乳房)があった。それがまた自ら(おのずから=自然な)な円(まる)みを暖く抱いて、眼のとどかない上の方から、眼の先の寝床の上まで、大きな鍾乳石(しょうにゅうせき)のように垂(た)れ下っている。その寝床についている部分は、中に火気を蔵しているかと思うほど、うす赤い柘榴(ざくろ)の実の形を造っているが、そこを除いては、山一円、どこを見ても白くない所はない。その白さがまた、凝脂(きめの細かい肌)のような柔らかみのある、滑(すべらか)な色の白さで、山腹のなだらかなくぼみ(=虱はどこを見ていたのか、どこの部分か小生もわからない)でさえ、丁度雪にさす月の光のような、かすかに青い影を湛(たた)えているだけである。まして光をうけている部分は、融(と)けるような鼈甲色(べっこういろ)の光沢を帯びて、どこの山脈にも見られない、美しい弓なりの曲線(話は別。太宰は老婆を「乳房がしぼんだ茶袋を思わせる」と描き、16、17、あるいは18の女性の「コーヒー茶碗一ぱいになるくらいのゆたかな乳房」と表現している)を、遥な天際(空の果て)に描いている。……

 楊は驚嘆の眼を見開いて、この美しい山の姿を眺めた。が、その山が彼の細君の乳の一つだと云う事を知った時に、彼の驚きは果してどれくらいだった事であろう。彼は、愛も憎みも、乃至(ないし=あるいは)また性欲も忘れて、この象牙の山のような、巨大な乳房を見守った。そうして、驚嘆の余り、寝床の汗臭い匂(におい)も忘れたのか、いつまでも凝固(こりかた)まったように動かなかった。――楊は、虱になって始めて、細君の肉体の美しさを、如実に観ずる事が出来たのである。

 しかし、芸術の士にとって、虱の如く見る可(べ)きものは、独り女体の美しさばかりではない。

(大正六年九月)

「青空文庫」 底本:「芥川龍之介全集2」ちくま文庫、筑摩書房1986(昭和61)年10月28日第1刷発行、1996(平成8)年7月15日第11刷発行、底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房1971(昭和46)年3月~1971(昭和46)年11月、入力:j.utiyama、校正:earthian、1998年12月28日公開、2004年3月9日修正。

◇       ◆     ◇

 芥川がこの小説を発表したのは25歳、自殺する10年前のまだ独身のときだった。中国人と虱を主人公にしたのは当時の時代背景もあるのだろうが、その観察力はさすが。

 皆さんは虱をご存じか。小生はもちろん蚤はよく知っているが、虱は残念ながら見たことがない。「虱つぶし」の言葉通り、軍服などの縫い合わせの部分をつぶすと真っ赤になったという。

 最後の部分「芸術の士にとって、虱の如く見る可(べ)きものは、独り女体の美しさばかりではない」というのはその通りだと思う。生き方もマンションもつきつめれば「美」が全てだ。記者はマンションのマクロ(女体)をミクロ(虱)の視線で観てきた。誰だ!木を見て森を見ずというのは!

 

 

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