RBA OFFICIAL
 
2019/04/30(火) 14:57

波瀾万丈の「平成」掉尾飾る〝中央線の不死鳥〟日新ハウジング・平山喜朗社長(71)

投稿者:  牧田司

IMG_6998.jpg
平山氏(手前の矢車草は自身が育てたもの)

 

「平成」の掉尾を飾り、「令和」に繋ぐ記念すべきインタビューは日新ハウジング社長・平山喜朗氏(71)にお願いし、快く承諾していただき実現した。

       ◆     ◇

「昭和」の時代を「激動」とすれば、平成の時代は「波瀾万丈」ではなかったか。平成元年(1989年)12月に東証株価が38,915円の高値を付けた直後、平成2年(1990年)9月、バブルがはじけた。不動産業界は奈落の底に突き落とされた。

その後、平成7年(1995年)あたりから緩やかな回復が見られたが、平成20年(2008年)のリーマン・ショックにより不動産業界は再び絶望の淵に立たされた。数えきれないほどの不動産会社が市場からの撤退を余儀なくされた。

一方でグローバリズムの進展とネオリベラリズムの台頭は、それまでのモノサシは通用しなくなり、加速度的に進む少子高齢社会はいよいよ優勝劣敗の社会の到来を告げている。

平山氏の人生そのものも波瀾万丈の平成ではなかったか。バブルの危機を乗り越えたかと思ったら、平成10年、4人の子どもを独りで育ててきた母親を亡くした。起業して毎月仕送りを欠かしたことがない母思いの平山氏には相当こたえた。

その痛手から立ち直ったかに見えた平成20年、自身の胃がんの発症とリーマン・ショックの直撃だ。

「よく覚えていますよ。平成19年の忘年会でゴルフの話をしたことを。そのあと胃がんで入院し、復帰したらリーマン・ショック。社有物件を50件抱え、銀行の借り入れも約10億円。すぐ決断したのは銀行依存体質からの脱却を目指したことです。仕入れのストップと社有物件の処理と借金返済、資金回収を行った結果、業績はV字回復。45年の間に借金を完済し、無借金経営ができる体質に改善しました」

「これまで41年間、ずっと物件を見てきました。見る目は肥える一方です。いまも110件は現場を見ます。これだけは誇りですね。わたしほど物件を見る人はいないんじゃないですかね」

「苦境を乗り切ってこられた原点ともいうべきポイントは3つです。一つは集客力、もう一つは営業力・接客力、3つ目は商品・サービス力です。これを徹底する教育力も大事です。退位? 息子(猛志氏)も入社して11年。いつかは決めていませんが、(社長を)譲れる準備を着々と進めています」と締めくくった。

IMG_6987.jpg
本社

IMG_6990.jpg
自身が似顔絵の看板(お迎えするお客さまの名前を書き込むのだろう。これこそが接客力)

 

 

       ◆     ◇

 平成20年(2008年)17日付の逆風にめげず今年も新卒13名採用 日新ハウジング」の記事を読んで頂きたい。前年の暮れに同社が関係者を呼んで行った忘年会の席上で、平山社長から聞いた〝50の手習い〟のゴルフの話などをまとめたものだ。記事は「波乱万丈の人生を送ってきた平山社長を〝中央線の奇跡〟と呼ぶ」と締めている。

 その直後の5月、平山氏は胃がんで入院。退院したらリーマン・ショックだ。記者は〝もうダメだろう〟と思った。奇跡は何度も起きないだろうと。

 ところがどうだ。10年ぶりにお会いした平山氏は年のせいか暴飲暴食ができなくなったお陰か、メタボは改善され血色もよく、名物の〝早朝の清掃〟も欠かさないというではないか。

 奇跡はまた起きた。〝中央線の奇跡〟に〝中央線の不死鳥〟の称号を追加しよう。

IMG_7072.jpg

IMG_7062.jpg
創業時から欠かさない6時から6時半の早朝掃除(〝日新不乱〟に行うので汗がほとばしる)

 

 

       ◆     ◇

平山氏は昭和23年1月生まれ。鹿児島県出身。早稲田大学卒。昭和533月、中野区で同社を創業。

以来、同社は中野区・杉並区・新宿区・練馬区の4区のエリアを中心に中古マンションの仕入販売・仲介・賃貸・リフォーム業を展開。この間蓄積したデータは約24万件に達している。

事務所のエントランス周りに設けた花壇には「田舎の庭先に自生していた、いまは花屋にも売っていない」矢車草が植わっており、たくさん花を咲かせていた。ファンが1015人くらいいるそうで配るのだそうだ。

 

rbay_ayumi.gif

 

ログイン

アカウントでログイン

ユーザ名 *
パスワード *
自動ログイン