旭化成ホームズと旭化成建材は12月12日、去る9月15日に亡くなられた元旭化成ホームズ社長・会長の土屋友二氏(享年78歳)の「土屋さんお別れの会」を行った。旭化成ホームズ・池田英輔社長、旭化成建材・前田富弘社長、喪主・土屋雍子さん、旭化成・浅野敏雄社長、旭化成・平居正仁副社長(前旭化成ホームズ社長)ら関係者約400人が別れを惜しんだ。
池田、前田両社長連名の「ご挨拶」には、「日頃の行動は常に飄々として軽快であり、いつもふらっと職場に現れては、『おい、最近どうや』と気軽に社員に声を掛け、議論の中では『それは、ごもっとも、ごもっとも』などと会話のはずむ軽妙洒脱で気さくな方でした。
大の阪神ファンで職場の中の『猛虎会』の重鎮であり、また、無類のお酒好きでもあり、公私さまざまな場面において皆様から愛され、慕われる存在でありました」などと土屋氏の人柄が紹介されていた。
土屋氏は和歌山県出身で昭和34年、東大卒。同年、旭化成入社。旭化成ホームズ社長・会長、旭化成建材副社長、、旭化成副社長などを務め、旭化成グループの多角化に貢献された。
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記者は次の取材が控えており、献花の後すぐ帰らざるを得なかったのだが、会に参加されていたお二人の方に話を聞いた。紹介する。
元旭化成ホームズ執行役員・堀井慶一氏(62) 土屋さんには私が野球部の監督のとき10年間くらい部の名誉顧問になっていただいた。当時、会社の売上目標を5,000億円に置いていたこともあり、ユニフォームの背番号は『チャレンジ5000』でした。初優勝した平成9年にはヒルトンホテルで行った祝勝会にも出席していただいた。今年の夏にはOB戦を石神井公園でやることになっていて、土屋さんも楽しみにされていた。当日は悪天候のため中止になったのが心残り。土屋さんは和歌山出身ですから大の阪神ファンでした
(堀井氏は同社野球部の初代監督。最初は強豪に歯が立たなかったが、平成9年に初優勝すると翌年も優勝。しかし、11年は優勝を逸したことから馘首された。営業マン時代は、3期連続全国優勝、年間成約件数37件、5年10カ月で100棟成約などを達成し〝伝説の男〟と呼ばれた。この記録は昨年破られるまで30年間くらい保持し続けた。若いときは、朝方まで飲んで山手線の始発から3周(1周は約1時間)して会社に出社したのもしばしばだったという)
元旭化成陸上部監督&アジア大会金メダリスト・大串啓二氏(80) 土屋君とは同期。彼は東大だったが、僕は筑波大(当時は東京教育大)。大学を卒業して教師をやっていたが、旭化成が静岡県富士に工場を建設し、陸上と野球部も創部するから来ないかと誘われて入社した。土屋君とは一緒に仕事をしたことはないが、富士、延岡、本社勤務など73歳まで51年間勤めた。野球部は静岡は強豪ばかりでなかなか勝てなかったが、陸上は強かった。しかし、最近は弱くなっちゃった。いいコーチがいなくなった。長距離は宗兄弟がいい見本。しっかり鍛えれば強くなるんだが…
(大串氏の名刺には日本陸上競技連盟顧問、日本マスターズ陸上競技連合名誉副会長、筑波大学陸上競技0B OG会会長などの肩書がついていた。現役のころは400mハードルの日本代表でメルボルン、東京、ローマのオリンピック3大会に旭化成の社員として出場。1962年のアジア大会では金メダル。国体では10年連続優勝。最高記録は51秒2だそうだ。大串氏は「いまのような全天候型じゃないよ。昔は土。記録は2秒くらい違うはず」と話した。同競技の日本記録は為末大氏の47秒89」)