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2017/06/07(水) 14:42

「お蔵入りしたコンバスが亡霊のようによみがえった」 トータルブレイン久光社長

投稿者:  牧田司

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 冒頭の間取り図は、間口が6m、奥行きが10mの専有面積60㎡の3LDKプランだ。これを見て「これはうちのマンションじゃない」と言い切れるデベロッパーはどれだけいるだろうか。ほとんど皆無ではないか。

 マンション建設費が高止まりで推移するいま、デベロッパーはグロス価格を抑えようと懸命になっている。その苦肉の策として18坪の3LDKが登場した。

 この現状を、かつて長谷工コーポレーション(当時長谷川工務店)の専務から長谷工不動産社長などを歴任したトータルブレイン・久光龍彦社長(76)は皮肉交じりに次のように語った。

 「もう30年以上も昔、故・佐藤美紀雄先生に散々叩かれて困り果て、お蔵入りさせた田の字型の『コンバス』が亡霊のようによみがえった。これはダメですね。デベロッパーは考えなきゃ」

◇       ◆     ◇

 久光氏が語った「コンバス」とはどのようなものだったかを少し長くなるが紹介する。

 「コンバス(CONdominiumu BUilding System)」は、長谷川工務店が昭和48年に編み出したマンションの究極の経済設計工法だ。間口が6m、奥行きが10mないしは11mの専有面積は60㎡(18坪)から66㎡(20坪)というという3LDKプランだ。形状が「田の字」型であるため「田の字型プラン」と呼ばれた。

 この経済設計プランは、絶対的な住宅不足解消とマンションの大衆化に貢献した。同社はマンション施工№1という位置を不動のものとした。

 コストを抑制するためには戸数を確保する必要があったため、ほとんどが住環境に難があり規制が緩やかな工業系用途地域に建設されたのも特徴だった。

 ところが〝不況下の大量供給〟が続いた昭和57~58年、郊外の施工比率が30~40%にも達し、どこに行っても同じ間取で住環境に難がある「コンバス」に対する風当たりが強まった。

 批判の論陣を張ったのは住宅評論家の故・佐藤美紀雄氏だった。自称〝弟子〟の記者も徹底して〝長谷工叩き〟の記事を書いた。

 記者がもっとも腹が立ったのは、同社とデベロッパー各社がこの20坪の「コンバス」を「全戸住宅金融公庫付き 広い3LDK(64.40㎡)・2,230万円から」と堂々と広告で謳ったことだった。

 当時、建設省は国民の豊かな住生活を確保するため住宅建設五箇年計画を策定し、第4期五箇年計画(4期五計)では誘導居住水準として都市居住型は4人家族で91㎡、平均居住水準として4人家族で86㎡の目標を掲げていた。

 この4期五計を武器に記者は「御社は国の政策に逆行しているではないか。どうして20坪にも満たない間取りを〝広めの3LDK〟などと宣伝するのか」と捻じ込んだことがある。天下の長谷工が応じるはずはなく、けんもほろろ門前払いを食らった。

 ところが、マンションが売れないのは「長谷工」のせいと、施工が長谷工であることをわからないようにする「長谷工隠し」を行ったデベロッパーが現われた。野村不動産だった。新聞広告に施工会社を掲載せず(公取の違反ではない)、現場では長谷工施工を示す「HK」マーク付きのシートに覆いをかけた。記者は「長谷工隠し始まる」と記事に書いた。

◇       ◆     ◇

 いまはどうか。オリンピック景気に沸くゼネコンは、叩かれてばかりいた積年の恨みつらみを晴らそうと反攻に出た。「マンションはやらない」と公言するスーパーゼネコンの幹部がいるほどだ。

 困り果てたデベロッパーがそれこそ手すり足すり、長谷工に「とにかく安くしてくれ」と泣きついているのが現状だ。かつて長谷工がコンバスを売り込んだのと逆の現象が起きている。

 〝長谷工頼み〟がどの程度のものかを示すデータがある。2016年度の首都圏供給戸数に対する同社の施工シェアは100戸以上で56.0%、400戸以上だと実に60.4%に達する。つまり大規模マンションの2戸に1戸は同社施工ということになる。

 冒頭の間取り図は、コストを最優先するデベロッパーが過去の遺物であるコンバスを思い出し、長谷工に再びやらせて出来上がった。

◇       ◆     ◇

 残念ながら、亡霊のようによみがえった「コンバス」は成功しているとはいいがたい。では、どうすればいいか。久光氏が一つの解決策を示した。

 「わたしが長谷工不動産の社長に就任し、コンバスから脱却しようと社運をかけたのが『モアクレスト』でした。第一弾の『西台』はよく覚えています」

 「モアクレスト西台」は、昭和62年に竣工した東武東上線東武練馬駅から徒歩7分の11階建て全181戸のマンションで、もちろん施工は長谷工コーポレーション。売主は長谷工不動産。最多価格帯は4,900万円台、坪単価は180万円だった。

 分譲開始は昭和62年2月。第1期79戸が最高72倍、平均27.0倍で即日完売した。引き続いて4月に分譲された第2期89戸も最高84倍、平均26.5倍の競争倍率で即完している。図面が示せないのは残念だが、バルコニー側に3室設けたワイドスパンの71㎡プランや、LDKが18畳大で主寝室が7.9畳大のプランなどを盛り込んでいる。

 今では信じられないような人気だが、当時、不動産市場は〝狂乱〟状態で、62年2月の供給量3,596戸の月間契約率は91.5%だった。

 記者は当時、マンションと建売住宅の全物件の販売状況を毎月調べており、中古でも築9年の「ドムス青山」が坪2,320万円(8億8,000万円、125㎡)で成約されたと記事にしている。

◇       ◆     ◇

 昭和62年当時と今はまるで逆だ。第一次取得層の所得が伸び悩み将来不安もぬぐえず、デフレ脱却も絶望的でシュリンクする一方の新築マンション市場の中で果たして田の字型プランは有効か。考え直す必要がありそうだ。

「デフレ脱却絶望的。郊外マンション価格は下がらない」トータルブレイン・久光社長(2017/5/30)

 

 

 

 

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