二和向台駅前の商店街(イチョウの存在感はまったくない)
二和向台駅前の商店街の無残な姿をさらけ出すイチョウ
名前は知っていたが、京成線「二和向台」駅に降り立ったのは初めてだった。ポラスグループ中央グリーン開発の好調な分譲戸建て「グランマーレ船橋二和向台 カームライフ」(62区画)を取材するためだ。
駅北口には商店街があった。郊外住宅地によくある光景だ。ぎょとしたのは街路樹のイチョウだった。幹の太さからいって樹齢は数十年、自然に育てば樹高は少なくとも10mはあるはずなのに、何と2階建て商店街と同じ、6mに届くか届かないくらいの高さにぶった切られていた。すべての枝も数十センチ以下に強剪定されていた。
紅葉が終わった後なら分からないではないが、瘤だらけの姿は、長年にわたってそうされてきたのが一目瞭然だった。幹にへばりつくように必死で生き延びようとする未成熟の若葉が痛々しかった。それが延々と200~300m、本数にして数十本はあった。イチョウ並木の墓標、葬列だ。
怒り心頭、かっと頭に血が上った。私は知らない。どうしてイチョウは雄株と雌株があるのか。葉っぱは扇形になり、切り込みは何の意味があるのか。実はどうして異臭を放つのか。俎板に重宝されるのか。東大のマークになったのか。
おそらく、樹齢数百年という巨木も珍しくないというから、成長力が強く、劣悪な環境でも生き延びられるからだろうと思う。だからこそ神社やお寺などのシンボルツリーになったのだろう。
そんな畏怖・敬愛すべきイチョウが、雄と雌が交わり、次の世代に子孫を残す目的を達した後に黄色く染まることさえ許されない-人間でいえば男は陰部や脇の下、鼻の下に髭か生え、女は初潮を迎えるころに、声帯を切除され、割礼の儀式を受けるのと一緒ではないか。
怒りの矛先は行政に向かった。どうしてこんな乱暴なことをする権利があるのかと。〝落ち葉の処理に困る〟とか何とかの〝住民〟の苦情を受けないための事なかれ主義がそうさせているのだろうが、角を矯めて牛を殺すのと一緒だ。街のポテンシャルを引き下げることを行政が先頭に立って推し進めている。許せない。
しかし、これは行政だけの責任ではない。生きるため金を稼ぐためとはいえ、イチョウにとって「死」を意味することが分かっていながら、目をつぶり、唯々諾々と受け入れる造園業者がいる。どうしてプロとして〝NO〟と言えないのか。情けない。
さらに考えた。これは行政や造園業者だけに責任があるのではない。そんな暴挙を容認する市民のほうがずっと罪が重いのではないか。試しに駅近くで、買い物帰りの若くもない市民らしき女性(これは差別だという人もいるかもしれないが)に聞いてみた。「これはあんまりではないか」と。その女性は「イチョウ? 言われればそうかもしれない」と答えた。
ここに問題のすべてがある。普通の男も女もイチョウくらいは認識できるはずなのに、この街路樹がイチョウであることを市民は認識していない。いかに異形であり、葉っぱは蘖(ひこばえ=大人になり切っていない若い芽)であるかを物語っている。
言いたいことはまだある。こちらのほうが問題かもしれない。ポラスの担当者によると、地元の住宅購入検討者は「2,000万円台の後半から3,000万円台の後半が相場だと思っている人が多い」そうだ。
なるほど。イチョウが成長しないまま電柱のようにぶった切られてもなんの痛痒も感じない、緑を愛でるゆとりもない所詮その程度の人たちが住むところかと納得もした。
「グランマーレ船橋二和向台 カームライフ」の記事は明日以降に書く。こんなひどい地域でよくぞ売ったと思う。商品企画が素晴らしい。都内居住者からも支持を得たのは当然だ。
取材の帰り。駅前の飲食店で390円と790円の白ワインを飲み比べた。どっちがおいしかまずいかわからなかった。私も船橋市民と一緒か。
高さ4mくらいにぶった切られているイチョウ
このように〝お花〟を添える人もいる
これが都内でいま見られるイチョウ
またまた「街路樹が泣いている」 千代田区 街路樹伐採で賛否両論(2016/9/8)