視覚支援機器を使って野球観戦するイベント参加者(神宮球場で)
既報のように、東京ヤクルトスワローズのトップスポンサーの1社であるオープンハウスは8月20日、「挑戦する人や組織を応援する」企業姿勢を体現した社会共創活動「O-EN HOUSE PROJECT」の一環として「応燕ハウスナイター」観戦会を開催した。見えにくさを感じる子どもを対象に、視覚支援機器を使って野球観戦するイベントだ。
会場について渡された資料の中の「レティッサオンハンドのご利用に関するお願い」文が真っ先に目に飛び込んできた。そこには、「非医療機器のため、眼に疾患のある方の使用を意図していません」とあり、「医療機器と捉えられるような表現を使用すると、薬機法に抵触してしまう可能性があるため、適切な表現でご案内いただきたく、注意点をまとめました」とあった。
資料には、「レティッサオンハンドは、視覚障がい者にご利用いただけます」「レティッサオンハンドは、視力を改善します」「レティッサオンハンドで見えるようになります」などという表現は不可で、「レティッサオンハンドは、見えにくさのある方にご利用いただけます」と改めるように指示されている。
この注意書きを読んで、記者は「薬機法」なる法律があるのを初めて知ったが、おそらく「薬事法」と似たような法律で、不動産業界でいえば、「おとり広告」や「誇大広告」を禁止した不動産公正取引協議会連合会の「不動産の表示に関する公正競争規約」と似たようなものだろうと理解した。「実際のものよりも優良又は有利であると誤認されるおそれのある表示」は不可ということだ。(オープンハウスから取材の案内が届いたときに、QD LASERとレティッサオンハンドについてしっかり確認すべきことで、年を取るごとになにかにつけいい加減になってきた記者が悪い)
さて、ここからが本題。読者の皆さんもレティッサオンハンド(RETISSA ON HAND)」は「薬機法」に定義されている商品ではないということを理解していただき、以下の記事を読んでいただきたい。ただし、表現の自由もあるので、記者がこの商品を〝素晴らしい〟〝よく見える〟などと絶賛しても、〝マンションの商品企画が素晴らしい〟〝割安感がある〟などと同じようにいかなる法律にも違反していないことをお断りしておく。
「レティッサオンハンド(RETISSA ON HAND)」
イベント参加者
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まず、この視覚支援機器「レティッサオンハンド」について。これは2006年、富士通研究所からスピンオフベンチャーとして立ち上げた会社「QDレーザ」が世界で初めて網膜投影技術の製品化に成功し、2年前から販売を始めたものだ。詳しい技術的なことは省くが、近視でも遠視でも乱視でも映像を見えやすくする技術だ。
手持ち型で重さは約500グラム。ズーム機能付きで最大7倍まで拡大することができるほか、スクリーンショット、白黒反転、コントラスト調整なども可能。4時間のフル充電で2時間の連続使用が可能。販売価格は40万円。リースも可能。これまで複数の美術館・劇場への導入実績があるという。
イベントに参加した、視力は両目で0.1弱の中島健太くん(10)は「狭く見えるけど、色の分かれ目がはっきりして、スマホより見やすい」と、両目とも視力が低い配川航太くん(11)は「すごくよく見える。広く見えるのが一番いい。文字がはっきり見える。肉眼で見えないものが見える」とそれぞれ感想を語った。
視力0.2、眼鏡をはずすと30cm先のパソコンの文字が読めない記者も体験した。眼鏡をはずして見たのに、数メートル先の使用品について説明した同社視覚情報デバイス事業部営業グループ・金井勇樹氏の姿がくっきり映し出された。信じられなかった。健全な視力をお持ちの方はご存じないかもしれないが、眼鏡なしでは虫眼鏡は全く役に立たない。
既報の記事の見出しを「目からうろこ 無限の可能性秘める視覚支援機器…」としたのは、まさにこの点だ。記者は最近、広陵高校の暴力沙汰が表面化したのと同時進行の形で川上未映子「ヘヴン」(講談社文庫)を読んだ。芥川賞作家の作品はもう30年以上前から読まなくなったのだが、川上氏が小川洋子氏に次ぐ日本人女性作家としては2人目のブッカー国際賞候補に上ったので〝気になる作家〟だったからだ。
「ヘヴン」は、主人公の「僕」が14歳のとき、「斜視」が理由にクラスから陰惨な苛めにあったのを、子供目線でリアルに描いた作品だ。善とは悪とは何か、正とは邪とは何かという宗教的・哲学的な永遠のテーマを問う小説でもある。
ベストセラーになったのでご存じの方も多いだろうが、15,000円の斜視の手術を受け退院した「僕」が見た結末の世界を紹介する。
「それは僕が想像もしなかった光景だった。
十二月の冷たい空気のなかで、何千何万という葉のすべては濡れたような金色に輝き、その光りかたはまるでその一枚一枚がそれぞれの輝きを鳴らしながら、僕のなかへとめどもなく流れこんでくるかのようだった。僕は息をのんで、その流れに身をまかせるしかなかった。一秒がつぎの一秒へたどりつくそのあいだの距離が、なにか大きなものの手によってそっと引きのばされているのを僕は感じていた。息を吐くことも、まばたきをすることも忘れ、僕は黒々とした鮮やかな木の肌にもぐりこみ、その肌ざわりを身体のいちばんやわらかな場所で感じとることができた。黄金に鳴りつづける葉のすきまにゆれる光の粒子をひとつ一つ指さきでつまんで、そのなかに入ることもできた。正午だった。しかし太陽はもう見えなかった。なにもかもがそれだけで光り輝いていた。僕は目のまえの光景が信じられず、口をあけたまま何度も首をふっていた。地面にひざをつき、葉の一枚を手にとって見つめてみた。その葉にはこれまで僕の知らなかった重さがあった。僕の知らなかった冷たさがあり、輪郭があった。僕の両目からはとめどもなく涙が流れ、涙ににじみながら、目のまえにあらわれた世界はあらわれながら何度でも生まれつづけているようだった。
なにもかもが美しかった。これまで数えきれないくらいくぐり抜けてきたこの並木道の果てに、僕ははじめて白く光る向こう側を見たのだった。僕にはそれがわかった。僕の目からは涙が流れつづけ、そのなかではじめて世界は像をむすび、世界にははじめて奥ゆきがあった。世界には向こう側があった。僕は目をみひらき、渾身のちからをこめて目をひらき、そこに映るものはなにもかもが美しかった。僕は泣きながらその美しさのなかに立ちつくし、そしてとこにも立っていなかった。音をたてて涙はこぼれつづけていた。映るものはなにもかもが美しかった。しかしそれはただの美しさだった。誰に伝えることも、誰に知ってもらうこともできない、それはただの美しさだった。」
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素晴らしい商品ではあるが、課題もすぐ〝見えた〟。スポーツ・コンサート・劇場観戦、絵画鑑賞にはいいかもしれないが、眼が不自由な人(この表現が問題なのだろうが、これは記者の表現の自由だ)にとっては日常的によく見えることが必要で、片手または両手が使えないのは致命的だと思った。パソコンが操作できないではないか。この点について同社も承知しているようで「当初眼鏡型も作っていただが、技術的な難しさもあり今は手持ち型が主流になっている。眼鏡型を求める声に応えていけるよう、メガネ型の研究は続けている」と金井氏は話した。
さらに言えば、中島くんが巨人選手の三振の場面をスクリーンショットで捕らえたように、カメラ機能を付加すればあらゆる事象を記録することができる。まだある。約300万人といわれる色盲・色弱者にも対応できるようにしたらノーベル賞ものではないか。
商品名にも問題がありそうだ。金井氏は「普及がいま一つ」と話したが、「レティッサオンハンド」では消費者に何の商品なのか伝わらない。目は「EYE」であり「愛」だ。一目瞭然、一目ぼれ、眉目秀麗、夜目遠目…〝便利地、好立地〟のオープンハウスに頼めば素晴らしい名前が生まれるのではないか。〝相視相愛メガネ〟はどうか。
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家に帰って「薬機法」を調べてみたら、正式な名称は「医薬品、医療機器等の品質、有効性及び安全性の確保等に関する法律」で昭和35年に制定された。第91条まである。
読むとなかなか面白い。第2条の定義では「『化粧品』とは、人の身体を清潔にし、美化し、魅力を増し、容貌を変え、又は皮膚若しくは毛髪を健やかに保つために、身体に塗擦、散布その他これらに類似する方法で使用されることが目的とされている物で、人体に対する作用が緩和なものをいう」とある。
また、「誇大広告等」を禁止した第66条には「何人も、医薬品、医薬部外品、化粧品、医療機器又は再生医療等製品の名称、製造方法、効能、効果又は性能に関して、明示的であると暗示的であるとを問わず、虚偽又は誇大な記事を広告し、記述し、又は流布してはならない」とある-記者はヘアリキッド以外の化粧品を利用したことがないが、緩和な作用で魅力を増し、容貌を変える化粧品はあるのか。実物と似て非なる選挙ポスターの顔は誇大広告に該当しないのか。
このように、世の中は何もかもが見えにくくなっている。白内障のような世界が広がっている。善と悪を暴き出すことはできないだろうが、視覚支援機器「レティッサオンハンド」は、世界を変える無限の可能性を秘めているのは間違いない。
目からうろこ無限の可能性秘める視覚支援機器オープンハウス・応燕ハウスナイター(2025/8/20)