RBA OFFICIAL
 
2018/08/09(木) 15:08

戦争体験と大京草創期を知る貴重な資料 「横山修二 講話」(全住協機関誌より)

投稿者:  牧田司

 今年5月6日、92歳で死去した大京創業者の横山修二氏の「お別れの会」が7月23日、故人が会長を務めていた山幸商事の主催により都内のホテルで行われた。会場で関係者に配布された文書「横山修二 講話 当社の辿った経営戦略と今後の課題と対応」(機関誌「全住協NO 141(1985年1月)」)を入手した。

 文書は1万字を超えるもので、横山氏は戦争と4年間のシベリア抑留の厳しい体験が後半生の人生を変えたこと、住宅建設が戦後復興に欠かせないと判断して創業したこと、その後、オイルショックを乗り切り、マンション事業に傾注し、資金効率を重視した販売戦略を構築し、上場を果たすことで大手デベロッパーをしのぐマンション最大手に成長させたこと、さらに、ワンルーム市場など都市型住宅はどうあるべきかについても語っている。

 講話は、戦争を考える意味でも、大手をしのぐ勢いで同社がどうして伸長したのかなどを知る意味でも貴重であり、歴史として残すべきと判断して紹介する。

 掲載に当たっては、読みやすくするため適宜改行を施し、漢数字は算用数字に改めたが、文章の変更、省略は最小限にとどめた。小見出しは記者が付けた。

大京の辿った経営戦略と今後の課題と対応

 ただいま庄野委員長からご紹介をいただきました横山でございます。当初は講師をお引き受けすることをご辞退申しあげたのですが、委員長のほうから是非ともという要請がございましたので、大京観光の26年を振り返りながら、特に厳しい時代をとりあげて苦労話しでもみなさんにおきかせしようというつもりで本日まいりました。

人生塞翁が馬 幹部候補生になれず

 会社の厳しい時代の話しに入る前に、どうしてもみなさんに聞いていただきたいことがあります。私の後半の人間形成について、極めて重大な事件が二つあったのです。事件というよりも生活体験といったほうがよろしいでしょう。この二つのファクターのお蔭で会社設立から26年間の苦しい場面を乗り越えてきたとも言えると思います。

 二つの重要な事件のまず一つは、昭和19年に軍隊に入隊したことです。同年12月甲府の六三部隊に入隊しました。入隊する前私は現芝浦工大に在学しておりました。昭和18年には東京高等工学校と芝浦工業専門の二つになりました。私は東京高等工学校の附属から入学し予科を経て昭和20年の3月に卒業する予定でした。

 ご存知のように太平洋戦争の勃発により19年に繰り上げ卒業し入隊しました。実は18年には東京高等工学校に籍をおいていたのですが、当時中学(旧制)卒業の検定試験を受けますと自動的に芝浦工業専門に籍を移すことができたのです。私はアイスホッケー部に所属しておりまして、芝浦のスケートリンクでスケートの練習に熱中していました。当時友人の3分の1ぐらいは検定試験を受けて芝浦工業専門の方に進んだのです。この工業専門に進みますと軍隊に入るときに幹部候補生としての資格が得られるのです。ところが東京高等工学校を卒業するとその資格がないのです。そのことが、昭和20年までの私の人生を大きく左右することになったのです。

 私がもう少し勉強して、芝浦工業専門に入っていれば幹部候補生として南方方面に派遣されていたはずです。芝浦工専に入った友人の数多くは、南方方面で玉砕しています。振り返ってつくづく感慨にふけるところです。 

 私は入隊と同時に北支に派遣されました。現在の済南です。北支で初年兵教育を受けながら戦闘にも参加しました。中隊単位で転戦していたのですが、三回目の部落に入ったとき手榴弾が投げ込まれ、たまたま私の側で爆発し、爆風で壁にたたきつけられました。その影響で現在でも右の耳の鼓膜が少し傷んでいます。 

 確か20年の1月頃でしたが本土防衛のため帰還命令がでました。そこで北支から貨車にのって北鮮の咸興に着き、咸興の港から本土に輸送される予定でした。ところが私たちの前の先発隊がアメリカの潜水艦によって二隻撃沈されたという情報が入りました。そこでもう少し様子を見ようということで咸興の小学校に分屯し、配船の順序を待っていました。

 そこでみなさんご存知ように8月15日に停戦の詔勅が下されたわけです。午後部隊長が部隊全員を集めまして。訓示をされました。部隊長は坪井大佐でした。早稲田の教官をしていた人格者の方でした。その部隊長から「私の目の黒いうちは、あなた方を必ず内地に連れて帰って親兄弟に渡すんだ」と力強い訓示がありました。

 訓示が終ってまもなくソ連の軍隊が進駐してきました。夕刻中隊長から武装解除の指示があり、段取りをしていました。われわれとしては率直に申しあげて、〝ああ助かったな″という感じがしたわけです。

 その訓示があった翌日の午前中に事件が起きたのです。坪井大佐が部隊長室でピストル自殺をされた。そこには手紙があり、「兵士のみなさんには申し訳ない…」と書いてありました。 

マイナス50度 錯乱状態に陥り死んだ友人

 それからシベリア抑留という厳しいつらい体験をすることになるのです。部隊長が亡くなって3日目ぐらいに、中隊ごとに、咸興から貨車に乗せられて、食糧らしきものはほとんどあてがわれず、朝は明太(スケトウダラ)一本、昼は黒バンー個、目的地も告げられず、10日程過ぎました。着いたところが現在のヴォロシーロフで、鉄条網で囲まれた兵舎に入れられました。そこの収容所長から「当分の間、日本軍の皆さんはここにおいて捕虜として抑留をする」と宣告されたのです。昭和20年9月から24年12月までのまる4年間シベリアの厳しい抑留生活を体験してきました。 

 軍隊生活はいろいろあったのですが、特にこのシベリアの4年間の抑留生活体験は非常に責重な体験であったと申しあげることができると思います。捕虜として道路人夫、左官屋、大工、炭坑夫等あらゆる重労働を体験しました。死ぬか生きるかという生活を4年間毎日続けたわけです。寒いときはマイナス50度ぐらいになります。捕虜のなかでも体力に応じて作業が振り分けられるのです。

 いろいろな作業を体験しましたが、なかでも1年間厳しい炭鉱の作業に従事しました。みなさんはほとんど経験がないと思いますが、炭鉱の仕事は非常に重労働です。シベリアの炭鉱は2~300m、深いところで500mぐらいです。入坑するときはエレベーターで降りるのですが、作業が終って出るときは、斜坑を歩いて出るのです。最初は脚の裏が突っ張り、ようやく地上にでてきても兵舎まで這って帰る状態です。

 この兵舎での食糧事情は、朝食がスープとパンが一切れです。ロシア語でゼリョーネという名前のスープです。名前はよいのですが、ホウレンソウのような青菜が入っていて塩で味をつけてあるだけです。量は飯盒の蓋で八分目ぐらいです。パンは200グラムぐらいです。お昼は、飯盒の3分の1ぐらいに米、大豆、麦など雑穀を炊いて塩で味をつけるだけです。夕食は雑炊なのです。これだけのカロリーで人間がはたして生きていくことができるのかどうか。人間生活としてはまさに最低の食糧生活であったわけです。したがって私の友人も栄養失調で何人か亡くなりました。

 その当時振り返っていちばん悲惨だったことは、麹町で同級生であった江川君が栄養失調になり亡くなったことです。彼は具合が悪いので医務室で寝ておりました。私は作業から帰ってくると毎日見舞いに行きました。栄養失調状態になると逆に胃腸が受けつけなくなるのです。最後にあまりにも体が衰弱しすぎ頭がおかしくなってしまいました。

 ある晩私が見舞いに行きましたら、江川君が背嚢を背負って廊下を這ってくるのですね。「おい!江川どうしたんだ!!」と言ったら、ふっと私の顔を見て、そのまま這って医務室のドアを開けて外にでていくのです。そして空を見上げて「あっこれで日本に帰れる!」という一言を最後にそこで亡くなってしまいました。 

過酷な坑木運搬 汗も涸れる わきの下の脂汗のみ

 このようなシベリアの厳しい抑留生活のなかで、私が特に苦しかったのは、一年間の炭鉱生活でした。私は学生時代スポーツをやっていましたので健康だと見られたのですね。坑木運搬の仕事をさせられたのです。炭鉱は石炭の層を掘っていくのですね。幅が5m、天井が3mぐらいの坑道を掘っていくのです。そこにトロッコの線路を敷設し、トロッコヘ石炭を入れ、エレベーターのあるところへ運ぶのです。掘った部分に落盤しないように坑木を鳥居型に組むのです。この坑木は、当時生の原木を使っていましたので1本120~150キロぐらいありました。その坑木を担ぎ50~60mの坑道を一日10本運ぶのが私のノルマでした。

 ところが一本140~150キロもある坑木を一日10本運ぶということはたいへんな作業なのです。長さは3~4mぐらいあります。その坑木の端を友人に持ってもらって、自分で肩を入れて担ぎ坑道の壁を頼りに先端の方へ運ぶのです。わずか50~60mの距離ですが、一本運ぶと、頭から足の先までびっしょり汗をかきます。帰りはくたくたになり汗を拭きながらまた帰ってくる。少し休んで二本目を担ぎ10~15mぐらい歩いた時点で腋の下から脂汗がすうっと流れます。一本運んだだけで体力を消耗しきって、汗が涸れきっているのです。恐らく経験をした方でないと、わからないと思います。 

 この4年間の厳しいシベリアの体験が後半の人間形成に大きな影響を与えました。したがって少々苦しいことがあっても自分はシベリアの四年間の厳しい苦しい辛い生活を経験してきたのだから、社会においてもどんなに苦しい場面があっても、乗り越えることが出来るのだという自信につながったと申しあげることができると思います。

食事と酒を飲ませてくれた友人の勧め

 昭和24年にシベリアから帰ってきまして、翌25年1月に大森にある沖電機の子会社に奉職いたしました。そのとき黒田君という同級生に会う機会がありました。彼は芝浦工業専門の土木の出身で、道路工事や宅地造成を専門に仕事をしており、非常に景気がよいのです。当時私は安月給取りですから、黒田君と会うと食事を御馳走してくれる、一杯飲ましてくれるということで、貴重な友人でした。実は黒田君がこれからの日本の復興について考えた場合、土木業は非常に忙しく人手がいくらあっても足りない-今後は、住宅建設の仕事をやったらどうかという話がございました。これが私が不動産業界に入った動機でございます。 

 大京観光の歴史を振り返りまして、次の四つの苦しい時期がありました。①創業時②昭和40年に、組織の見直しと社員教育に重点を置くことに伴って、社員の歩合給を廃止した③49年のオイルショック④57年の東京証券取引所の上場。

 現在不動産業界では、当社は売上では三井不動産に次いで二番目。経常利益では三菱地所、三井不動産に次いで三番目です。戦後の不動産業界で、大手の子会社以外はあまり成長しないという一般的な見方があったのです。当社が昭和57年に上場するまで約10年間同業種の上場はなかったのです。それほど不動産業界は厳しい時代でありました。以上の四つの苦しい時代に、どのような考え方いかなる戦術で乗り越えたかについて触れさせていただきます。

体力つける基礎となった別荘分譲 

 昭和34年、個人で大京商事を設立しました。その後約一年で株式会社大京商事にしました。個人で独立する前は、B社に勤めて課長職ということで勉強していました。昭和34年にいよいよ独立しようと決心いたしました。B社の社長さんにご相談をしたのです。「以前から考えていたように独立をしたい。わが国の経済、都市の復興について、とりわけ住宅問題に真剣に取り組んでみたい」このような相談をしましたところ。非常にご理解のある社長さんで「よろしい、あなたは独立しなさい」当時私の部下は7~8人いたのです。「あなたの課の部下をそのまま連れていきなさい」と言ってくれたのです。独立をするといってもたいした資本があるわけでもないし、自分で毎月貯めたごくわずかな資本と社員8名で池袋の東口でスタートしました。 

 当時の仕事の方法は現在と全く違うのですね。調査方法や販売方法にしても非常に幼稚な方法でした。たとえば調査についても、社員が一日町の不動産業者を10~15軒ぐらい歩いていい物件を探すという方法です。私は創業当初から住宅建設を事業計画の柱にしたいと考えていました。ところが住宅建設を行うにはかなりの資金量が必要であったのです。用地買収や住宅建設も思うようになかなか進みませんでした。

 当時池袋のロータリーの丁度向側に日の出信用組合がありました。そこの理事長さんが私に深い理解を示してくれました。会社発足の頃は私は朝7時には会社へ出て、夜11時までは働いていました。そのような状況を理事長さんが職員から聞いたり、自から見たり聞いたりして「なるほど大京の横山は仕事を一生懸命やっている。なんとか一つ応援してやろう」というようなことがございまして、微力だった大京商事について日の出信用組合の理事長が積極的に協力をして下さいました。お蔭様で仲介の仕事をやりながら、大泉学園や日吉で建売を始めるようになりました。当時は私自身が物件調査にも歩き、販売の先頭にたって指揮をとりました。考えようによってはその時代の仕事のほうがおもしろかったと言えます。

 昭和36~37年は池田首相の所得倍増計画が提唱され高度経済成長へとスタートしはじめた時期です。この時期にある会社が別荘地の販売を始めました。これが実に実績があがったのですね。われわれもいろいろな角度から検討をしてみました。将来おもしろいという感触を私はつかんだのです。37年から40年の四年間、別荘地に進出しました。特に38年には、白河のホテルを買収し、ホテルを中心にした別荘地販売を展開いたしました。

 最初の頃は、坪1,000~1,500円で上下水道をつけないで販売できたのですが、2~3年経過しますと、県の指導要綱として「上下水道を完備しなさい。道路もこのような条件にしなさい」という指導のもとに後半の別荘地の販売については、別荘地としての実需に即した別荘地開発を当社は行ってきました。この別荘地販売を通して、大京観光は非常に体力がついてきたと、はっきり申し上げることができると思います。

社員育成と組織作りに歩合給の廃止決断

 もちろん皆さん方は経営者として経営哲学があると思うのです。あくまでも個人商店として会社を経営していこうとする経営者の方もおります。一方企業として立派な組織を作り、立派な人材を育成し、企業として社会的な責任を果たしていきたいと考えている経営者の方もいらっしゃいます。

 実は昭和40年に、企業としての組織づくりと社員教育に大きな関心を持ったのです。このときの社員教育のもっとも大事な問題として歩合給の廃止の問題に取り組んだのです。当時歩合給の廃止を導入することは業界としては非常に冒険であったわけです。私は敢えて危険を承知で将来の社員の育成と組織づくりという問題に挑戦をしたのです。この時期がやはり厳しいときでもありました。腕のいい社員は、固定給だとつまらないから条件のいい会社へ移っていくのですね。しかし長期的にみますと、現在の大京観光の社員の育成、組織づくりに大きなプラスになってきたとはっきりと申しあげられると思います。

 なぜ歩合給がいけないか。歩合給で社員を雇用するということは、社員の立場に立って考える時、自分だけ高収入であればよいのですね。そこで消費者や会社の信用の問題は顧みられなくなります。それでは実質的に愛社心のある誠実な社員の育成はできないと考えたのです。 

 昭和43年には、赤坂でライオンズマンション第一号を発売しました。43年には大京商事と大京開発の事業を大京観光に統合いたしました。この年には草加で宅地造成と併せて建売事業も進めておりました。その後マンションの供給棟数が増えてくるにしたがってマンション管理の間題が重要になってまいりましたので、44年に大京管理を設立しました。45年の2月に大阪支店、5月に名古屋支店を開設し、11月には沖縄に大京カントリークラブもオープンしました。 

 45年6月には、千葉県のはまの台で113区画の宅地造成を行いました。46年11月には仙台支店、47年3月には横浜支店、12月に北海道支店を開設しました。48年4月には利根の白鷺の町で170区画の宅地造成と住宅建設がスタートしました。8月には千葉県の花見川で約300戸の住宅建設を行ない電々公社に納入いたしました。この間マンションも積極的に事業展開をはかりました。

オイルショックをばねに強力な販売力構築 

 みなさま方も厳しい経験をされたと思いますが、当社にとっても苦しい状況でした。金融の引締めにより事業計画が計画通り進まなくなりました。販売状況も低下いたしました。この時期に何を考えどう乗りきったかについて申しあげてみます。金融機関に当社の事業計画を正しく理解をしていただき確実な販売実績を挙げることを第一義と考えました。当時は、支店長サイドで金融機関との折衝をしておりました。ところがどうしても事業計画、金融面での話の調整がとれず支店長の言う通りにしていては、会社が行き詰まってしまいます。

 そこで私は金融機関の本部を訪ね副頭取に直接現状をご説明いたしました。当社は事業計画を推進するにあたって、どうしても資金が必要でした。反対に金融機関は貸出を引き締めていこうとする姿勢です。これでは意見は合いません。当時支店に優秀な次長さんがいました。その次長さんに私は夜10時、11時までじっくり計画をご説明いたしました。問題は事業計画を立てて、売れるか売れないかが問題なのです。確かに金融機関は売れない場合は資金負担が増えます。「私は必ず売ります」という立場にたって説明をし、副頭取にご理解をいただきました。

 さあ今度は約束通り売らなければいけません。販売方法については苦心をいたしました。現在の大京観光の強力な販売組織あるいは販売戦術は、当時の悪条件を背負って生まれてきたといっても過言ではないと思うのです。事業計画が一つ、二つ約束通り完遂されていきますと、ようやく金融機関の理解が得られるようになり、厳しいオイルショックをどうやら乗り越えることができたのです。 

 たとえば世田谷地区でマンション計画をたて、パンフレッ卜を持参し戸別訪問するときにも、私が現地へいって社員と一緒にパンフレッ卜を配布したこともあります。昨日もある地権者が「どうしても社長に会わせろ!社長にあわせなければ、最終的な条件は話しあわない」という話がありました。担当者が2年がかりで折衝したにもかかわらず打開されなかった問題について、私が直接話しあうことによってご了解をいただきました。私はいつでも、会社の難しい問題、苦しい事態に直面した場合は積極的に自分が出ていって問題に当たる決意を持っています。

 その後順調に推移し昭和53年には年間の供給量が約4,300戸になったのであります。事業主別の住宅供給量としては第一位の実績をつくることができました。この53年を契機に会社の事業計画を住宅供給部門、住宅流通部門、ビル事業部門の三本の柱に切り替えたのです。同時に将来の上場という問題に向って準備をしていこうと決意をしたのです。

 それから次年度の予算のたて方について、一つ申し上げます。たとえば販売計画は、各課、部を単位に下から予算を上げる制度を採るようにしました。したがって年間の販売計画は、役員の方から押しつけた事業計画、販売計画ではないのですね。社員の人達がよく相談した総意つまり下部組織から上がってくるのです。それをまとめて、年度の予算計画あるいは短期、中期の予算計画に組み直ししていく方式を採るようにしました。予算編成には、社員からの予算計画を尊重することが、事業計画の達成には非常に大事な問題であると考えています。 

 54年10月には新宿のライオンズホテルをオープンしました。11月には大京住宅流通センターを設立しました。55年1月、ライオンズマンションは400棟を達成しました。この年は約5,600戸供給しています。4月には資本金を9億6,450万円に増資しました。そして56年5月頃から幹事証券と上場の打合せを開始したのです。

資金調達と社員モラール向上 上場メリット 

 当社が上場するまでの10年間は不動産業種では上場がなかったために、非常に厳しい状況でした。しかも57年の業界自体もよい環境ではなかったのです。57年1月に上場申請書を提出しました。直ちに証券取引所の審査が開始されました。この審査が実に厳しい審査だったのです。とにかくいろいろな資料の提出が要求されます。3~4日も徹夜をして資料を整理しました。

 ともかくも57年1月から取引所との手続きは進んでいたのですが、当時住宅産業をとりまく環境が悪かったので当社の将来についても慎重な態度で審査がすすめられ、そのなかから資金効率の悪化とか契約率の低下といった難問題を指摘してきました。確かに資金効率が悪い、契約率が低下したとか問題点があるのです。小型のマンションは一年以内で竣工するのですが、大型化すると一年以内では竣工しません。

 資金効率を考える場合、一年でとらえるか一年を越えてとらえるかでは随分と違ってきます。私は竣工するまでの資金効率をグラフに変えたのです。企画部、事業部、営業部の幹部と一緒に夜を徹して作成しました。着工から竣工までの資金効率のグラフを全物件ごとに作り直しました。これを証券取引所に提出したのです。その結果、取引所にご理解をいただいたわけです。このような経過をたどって57年9月に東京証券取引所の第二部に上場することができました。

 上場につきましては、当初531万株を公募しまして、約70億円の資金調達ができました。更に58年9月には560万株の公募によりまして約180億円の資金調達ができました。そして今年の8月に国内で70億円、同時に海外でスイスフラン建で3,000万スイスフラン(約30億円)の転換社債を発行しました。上場することによって、現在まで約360億円の金利負担が比較的軽い資金調達ができました。これは上場によるメリッ卜です。

 また上場することによって社員のモラールが向上したことです。社員一人ひとりが自分は上場会社の社員であるという自覚と誇りを持って仕事をするようになったことです。同時に、情報量が極端に増えてきたことです。従来の5~6倍の情報量になりました。そして販売面においても、大京観光が東証一部に指定替えされたということで、購入者が安心感をいだくようになったことです。また有力企業との間で従業員向け販売の業務提携が積極的にできるようになりました。上場することによって企業の社会的な評価が高くなることによって、いろいろなメリットを得ることができます。

今後の不動産業界の動向はどうなるか

 それではみなさんが関心をもっておられる〝今後の不動産業界の動向はどうなるのだろうか″ということに触れさせていただきます。過去5年間の住宅供給の推移をみることによって、今後の5年間がどのように動いていくかだいたい推測できると思うのです。過去5年間の特徴を簡単に申しあげてみます。

 建築着工戸数は次のようになります。

 昭和55年 126万戸   

   56年 115万戸   

   57年 114万戸   

   58年 113万戸

 更にこの戸数の内訳を見ますと、分譲住宅の戸数は減少傾向にあります。しかし、一戸建は極端に戸数が下がってきていますが、マンションは総体的に需要は下がっていないと言うことができます。今後の5年間はどのような見通しになるかということです。マンションの供給戸数は順調に推移すると考えられます。それに関連して建築基準法の問題、都市計画法の問題、あるいは諸規制の緩和の問題があります。

(略)

 5年ごとに都市計画の見直しがあるということですね。今回は60年度が都市計画の見直しの時期にきているのです。また建設省の「建築審議会・建築行政部会・市街地環境分科会」においても建築基準法の見直しにも取組んでいます。更に民間活力導入の河本担当大臣も規制緩和に積極的に取組む姿勢を示しています。特に建築基準法の問題では、日影規制を地区的に外していこうとする動きが現在でているのです。

 住産協でも「建築基準法研究会」という組織をつくりました。第3回目の研究会では、第五二条の容積率を検討しました。その担当発表者である東高ハウスの井谷社長からアメリカのインセンティブ・ゾーニングの貴重な意見発表がなされました。いずれにしても、現状の総合設計制度、特定街区、市街地住宅総合設計制度にしましても日影規制の関連がありますと土地の有効利用ができないのです。現在東京23区の用途地域に決められた容積率は3分の1しか有効利用されていません。 

 ご承知のように住宅の価格が高いのは土地が高いからです。率直な例を申しあげます。容積率200%のところを400%にしますとマンションの価格が3分の1安くなります。2,400万円のマンションは1,600万円の価格になります。道路の巾員規準、第一種住専の高さ制限等についても、いろいろ注文をつけて積極的に都市計画の見直し、建築基準法の法改正にも取り組んでいこうという考え方でおります。私も建設省の三つの委員会の委員を引き受けて、従来にない積極的な発言をしています。委員のなかにはたんへん好感を持っている方と、たいへん迷惑をしている方と両方いらっしゃるのですね(笑)。良質で低廉な住宅を供給するためには、規制の緩和に積極的に取り組まなければいけないと考えています。

都市型の単身者の住宅供給をいかに考えるか 

 ワンルームマンションについてある時期、同マンションは悪であるというマスコミの報道があったのです。住産協では、ワンルームマンションの問題に積極的に取組みました。私はワンルームマンションについては悪であるとは考えていません。むしろ社会的なニーズを先取りした事業計画ではないか。ただしルールはあるのです。住産協としては、現地調査、入居者へのヒアリング、区分所有者のアンケート調査等に基づいて自主規制をつくりました。建設省でも高く評価しています。今後は新しい角度で業界としても考えなければならない。都市型の単身者の住宅供給をいかに考えるかという社会的な立場から、ワンルームマンションの問題を考えなければならない時期にきていると思うのです。

 最後に私の経営理念を少し申し上げてみます。現状としては四つの問題を考えています。 

 (一)社会のニーズの先取りをする。 

 (二)企業の社会的な使命を果たす 

 (三)社員の福祉の向上を目指す 

 (四)株主の利益を守る 

 21世紀は充足から充実の時代に移行するであろうという考え方のもとに、みなさんと足並を揃えて一生懸命仕事に励んで行きたいと思っております。最近私はゴルフをやっているのですが、なかなか進歩しない。理由をいろいろ考えてみますと、上述した四つの経営理念を誠実に果たしているからではないかと…(笑)。

 たいへん雑駁なお話ですが、長時間ご清聴ありがとうございました。               

(拍手)

横山修二氏が死去「スケールの大きい方だった 夢を語った」安倍徹夫氏が追悼文

巨星消える 木下長志氏に続き大京創業者、横山修二氏が死去 92歳

元大京専務 木原稔氏 マンションの顧客主義を語る

 

 

 

rbay_ayumi.gif

 

ログイン

アカウントでログイン

ユーザ名 *
パスワード *
自動ログイン