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2026/03/14(土) 18:47

戦国時代の滋賀の落人 なぜ千葉・流山で生き延びたのか 15代目・山田さんと歓談

投稿者:  牧田司

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「ギャラリー一平左衛門」エントランス

 ポラスグルーブの分譲戸建て「ミライネス流山サード」の取材の帰り。他の記者の方はみんな、同社が用意した車で駅まで送ってもらった。〝右向け左〟のへそ曲がりの記者は、利根運河を見ないと取材したことにならないと判断し、運河に沿って整備されている遊歩道を歩くことにした。ものすごく寒かったが、運河の土手には春を告げるスイセンや、千葉県花の菜の花がたくさん自生していた。桜並木は160本あるそうで、散歩している人に聞いたら「とても楽しいですよ」ということだった。

 運河駅まであと数分のところにカフェ「ギャラリー一平左衛門」があった。かなり古い屋敷だとすぐ分かった。見事な竹林と、庭石に大谷石や古色蒼然としたレンガが敷かれており、年代物の巨木もたくさん植えられていた。

 次の取材まで時間があったので、一服してビールでも飲もうと入った。内装も全て本物の木が使用されていた。店の人は「窓の外の木は樹齢200年の梅の木。関ヶ原の戦いで敗れ、ここまで逃げてきた落人の末裔が建てた蔵もありますので是非見てください」と話した。

 「蔵」といえば、そのままタイトルになっている宮尾登美子「蔵」もあり、ポラスが保存した越谷駅近くの「蔵」を見学取材したことがあるが、ここの「蔵」も素晴らしい。この蔵と庭、竹林などを見て回り、帰ろうと思ったら、店の人から「オーナーがもうすぐ戻りますので、少し待たれたらいかがですか」と声を掛けられた。しばらくしてオーナーの山田恵美子さんが現れた。年齢はもうすぐ喜寿を迎える記者と同じくらいか。「恵」は当時はやった名前だ。しばし歓談した。

 山田さんからは、関ケ原の戦いで徳川家康に破れた石田三成の重臣だった山田上野之助の子孫が書き残した古文書が残っており、途中の家系図は一部不明だが、山田さんは15代目に当たり、「ギャラリー一平左衛門」は20年前に地域遺産として残そうと蔵の改修を行い開設したこと、敷地内で収穫したタケノコ、梅は食材やジュースとして提供し、隣接地にある平屋建て19戸の住宅地「TAKUMI流山運河」は、従前は山田家が所有していた畑だったこと、土手のヨモギは草餅にしたことなどを聞いた。

 時間がたつのも忘れた。1時間半はここで過ごしたか。額縁のような竹林や梅野木を眺めながら、獲れたてのたけのこご飯を食べ、梅酒が楽しめる-この前のポラスの「矢切の渡し」もそうだったが、デベロッパー(メディアもそうか)はその地域の歴史や文化を検討者にきちんと伝えないといけない。

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まるで額縁画(左が梅、右が竹林)

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店舗内(周り縁を含めすべて本物の木)

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竹林

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明治時代の消防ポンプ

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蔵の1階

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屋根(窓は後付け)

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1階の引戸

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格子には防犯対策として上から下まで鉄の棒がはめ込まれている(隙間にはネズミ対策として金網が張り巡らされていたとか)

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根太(触ると手斧で削ったことが分かる)

◇        ◆     ◇

 それにしても、今から約450年前、交通手段も通信手段も十分でなかったはずなのに、西軍の石田三成の家臣の子息が、滋賀県彦根から10年間もかけて、よりにもよってどうして東軍の牙城・江戸の近くの流山にたどり着き住むようになったのが。5人組や年貢米を通じて住民支配は徹底されていたはずだ。江戸幕府は知らぬふりをしたのか、村人がかくまったのか。

 明治に入って蔵を2つも建てられるようになったのはなぜか。正業は何だったのか…昨年発刊された田村哲三著「『佐和山落城記』を読む 石田三成の重臣・山田家に残された古文書の謎」(図書出版みぎわ)を読めば謎は解けるのか。

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